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【社会】

76年の歳月 特定難しく ガダルカナル島の「遺書」 誰が

久冨久男さんの生家に残る、出征時に掲げたとみられるのぼり。奥はおいの親彦さん=福岡県苅田町で

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 太平洋戦争の激戦地、ガダルカナル島(現在のソロモン諸島)で一九四二年九月、戦死を覚悟した兵士「久男」が「千代子」に宛てた遺書を、八月十七日本紙朝刊で紹介した。二人の名字や住所は不明で、本紙は戦没者名簿などを手掛かりに捜した。身近に千代子さんのいる久男さんが同島で戦死していたことが判明したが、面識のある遺族はおらず、筆跡も不明。誰が遺書を書いたのか、分かっていない。戦死者の多さと七十六年の時の長さが、特定を難しくしている。 (加藤行平)

 遺書が書かれたとみられる「九月三日」は、日本軍が同島に造った飛行場を米軍から奪還するため、川口支隊が総攻撃を行う四二年九月十二日の直前に当たる。川口支隊は、福岡県の旧陸軍歩兵第一二四連隊を中心に編成されていた。米軍の前に敗退、最終的には約三千二百人が戦死し、大半は同県出身の兵士だった。

 本紙は、連隊の遺族らで構成した「福岡ホニアラ会」(休止)や、福岡県遺族連合会作成の戦没者名簿を手掛かりに調査。同島で戦死した久男さんは少なくとも県内の福岡市、旧朝倉郡三輪町(現在の筑前町)、京都(みやこ)郡苅田(かんだ)町の出身の三人がいた。

 福岡市の久男さんは遺族が不明で、県に照会したが「遺族の存否を確認できない」などとされ、遺族にたどり着けなかった。三輪町の久男さんは、名簿にあった遺族が既に死亡。親類や出身地を訪ね歩いても、周辺に千代子さんの存在は浮かばなかった。

 苅田町の久冨(くどみ)久男さん(戦死当時二十四歳)は、おいの久冨親彦(ちかひこ)さん(74)が町内に居住していた。さらに久男さんの生家のすぐ近くに、千代子さんという一歳上の女性が居住していたことも判明した。周囲の人によれば「(出身地周辺は)戦前は小さな集落で、二人が幼なじみで知人だったことは推測できる」という。

 しかし、久男さんが千代子さんに手紙を送る関係だったかどうかは不明で、久男さんの直筆の文書なども残っておらず、筆跡も確認できなかった。千代子さんは昨年八月、亡くなっていた。

 久冨久男さんは九人きょうだいの下から二番目。出征前の職業などは不明で、遺族も直接の面識はない。生家には写真が飾られ、出征時に掲げられたとみられるのぼりが残っているだけ。遺影は母リンさん(四六年に六十五歳で死去)が大きく引き伸ばして仏間に安置していたという。

 現状では、遺書を書いたのが久冨久男さんとは断定できていない。生存して復員した人や、福岡県以外の出身者の可能性もある。親彦さんは「もし本人が書いたのならば、いい供養になります」と話している。

 遺書は戦傷病者の記録を伝える「しょうけい館」(東京都千代田区)の学芸課長、木龍(きりゅう)克己さん(61)が約十年前、ワシントンの米国立公文書館分館で戦傷病者の記録を調査中、米軍が回収した資料から見つけた。公表の機会がなく、今春、昭和の記録を伝える「昭和館」(同)発行の論文集で発表にこぎつけた。

◆遺書全文

九月三日 ソロモン群島 ガダルカナル島に於(お)いて記す

重大なる作戦に参加いたし 男子として無上の喜びを感じます 連日敵機の攻撃又(また)激烈です

決戦が迫りました 散り行く身の一筆残します

生前の厚情 有難く思います 何一つ出来ず残念ですが 私の一生の真心が 只(ただ)一つの贈り物です

弱い君です 御身(おんみ)御大切に 強く生きて下(くだ)さい

私の言葉を忘れず 一本立ちになって一日も早く女としての生活へ入られるよう 私は君の身を護(まも)ります 私の戦死に 万歳の一声を叫んでやって下さい 君の今後の生活が 私を生かしてくれるのです

立派に生き抜いてください 御多幸を祈ります

                  久 男

千代子殿

 ※原文は漢字以外は片仮名 

 

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