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【300文字小説】

雨にまける 鈴木博己

イラスト・瀬崎修

写真

 ある雨の日、俺は傘を持たずに家を出た。ずぶ濡(ぬ)れになりながら、いつも通りに会社へ行き、いつも通りに帰宅した。俺は雨に負けたくなかったのだ。

 次の日も、その次の日も雨は降り続いた。それでも俺は、毎日ずぶ濡れになりながら会社へ出かけた。日曜日も雨は降り続いたが、敢(あ)えて俺は外出した。当然、傘は持たずに、だ。

 そんな雨と俺との戦いが一カ月ほども続いただろうか。その間降り続いた雨の影響で、土砂災害が発生し、都市機能も麻痺(まひ)してしまった。

 どうもおかしい。まさかとは思うが、この長雨の原因は俺なのだろうか。

 半信半疑ではあったが、俺はしぶしぶ傘を持って玄関を出た。すると、既に雨はやんでいた。

 (東京都武蔵野市・自営業・48歳)

◇ ◇ ◇ ◇

とーさんととーちゃん 木戸秀俊

 息子が保育園から似顔絵を持って帰ってきた。父の日のプレゼントということで、わたしの顔を描いてくれたようだ。

 それを差し出して、「おとーさん、だいしゅき」と言ってくれる。ははん、保育園の先生にしこまれたな。でも嬉(うれ)しい。ぎゅっ。

 夕方の子供番組がはじまる。息子は座布団をぽんぽんしながら、「とーちゃん、すわって」

 ちょっと気になったので聞いてみる。似顔絵を指差(さ)して、「これは?」

 「おとーさん」

 自分の鼻先を指して、「これは?」

 「とーちゃん」

 どうやら「おとーさん」という、よく知らない人の顔を描いてきたようだ。座布団にすわると、息子が膝の上にちょこんと乗ってくる。

 うん。これはこれで、とーちゃん幸せだ。

 (東京都豊島区・会社員・36歳)

◇ ◇ ◇ ◇

少年の夏 大原啓作

 昭和二十一年の初夏。

 一人の少年が背中にリュックを負い、田舎道を歩いて、時々農家を訪ねている。

 やがて一軒の家で住人の女性と会うことができた。

 「おばさん、砂糖とお米を交換してくれませんか」と聞くと、「ああ、いいよ。たくさんは無いけどね」と快く返事をくれた。

 少年はリュックから乾麺と砂糖を出して置いた。

 「配給品だね」

 そう言いながら、奥から米とジャガイモを持ってきて、少年の前に置く。

 「暑かったね。スイカでも食べなさい」と皿の上にのせてすすめた。

 あれから七十年、白髪となった少年は、妻を連れて訪ねたが、昔の面影はなく、道も広く家も建ち並んでいる小さな町になっている。

 (愛知県豊川市・無職・82歳)

◇ ◇ ◇ ◇

 雨ニモマケズなら宮沢賢治ですが、鈴木博己さんは「雨にまける」。負けてなるかと天に立ち向かってみましたが、結局、空模様を支配していたのは、あなたの傘一本?

 先月十八日“父の日”に手渡された可愛(かわい)いプレゼントに頬を緩めて、木戸秀俊さんの「とーさんととーちゃん」。どちらで呼びかけられても、ぎゅっとしてあげたくなりますね。

 太平洋戦争の終結から一年が経(た)って、大原啓作さん「少年の夏」。農家の庭先でふるまわれたスイカの味と思いやり。決して忘れてはならない一時代の情景スケッチです。

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