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【300文字小説】

渡るナナフシ 湯村隆昭

イラスト・瀬崎修

写真

 通勤はバイク。朝、いつものように下りのワインディングロードを走行し、初めての信号が国道を横切る交差点である。

 赤信号だったので、停止線で止まった。何気(なにげ)なく前の横断歩道を見ると、小枝のようなものが落ちている。と次の瞬間、その小枝が動いた。

 「あっ、ナナフシだ!」

 大きなナナフシである。ナナフシがアスファルトの横断歩道を渡っている。しかも青信号で。ゆっくり歩いては立ち止まっている。

 「早く渡ってしまわないと、車にひかれるぞ!」

 人の心配をよそに、ナナフシはマイペースである。

 「オマエは運がよかったんだよ」

 渡りきったナナフシは、無事、草むらに消えていった。

 (神奈川県秦野市・会社員・56歳)

◇ ◇ ◇ ◇

着せ替え狸のある蕎麦屋 川口友美

 昔、行きつけだった蕎麦(そば)屋の店先には小さな狸(たぬき)の置物があって、いつも服を着ていた。

 ある時は浴衣、ある時はサンタ、ある時はなんとかレンジャーのTシャツといった具合だ。

 全て店主の息子のお古で、季節ごとに着せ替えられる。それがちょっとした楽しみだった。

 麺が美味(おい)しくてお気に入りだったが、私の引っ越しにより自然と足が遠のいた。

 今日、約二十年ぶりに店を通りかかると、当時のまま狸はそこにあった。

 裏口から小さな女の子が走ってくる。それを追って男性が出てきた。

 狸が着ているのはフリルの付いたピンクのワンピース。

 着せ替えは受け継がれたらしい。さて、蕎麦はどうだろう。

 私は期待を込めて暖簾(のれん)をくぐった。

 (愛知県田原市・主婦・40歳)

◇ ◇ ◇ ◇

山の自慢話 関博之

 上高地の河童(かっぱ)橋の上に立つと、穂高連峰の大展望がひらける。

 ぼくは、奥穂高岳、前穂高岳、西穂高岳に全部登った。

 正面に見える開豁(かいかつ)な岳沢(だけさわ)も下ったことがある。

 涸沢(からさわ)から北穂高岳へも登っているから、穂高連峰のピークは一通り登ったことになる。

 登った登ったと自慢話になってしまったが、それぞれ一ぺんしか登ったことがない。

 穂高連峰なんて何十ぺんも登ってこそ本物の山男といえるだろう。

 でもぼくは万年ハイカーだったから、穂高のような高い山に一ぺん登っただけでも十分で、いい思い出になった。

 以上は妻にしか語らない家庭内自慢話だが、たまには他人にも言いたくなった。

 自慢話って、他人に言うほうが、ずっと楽しい。

 (埼玉県坂戸市・無職・81歳)

◇ ◇ ◇ ◇

 樹木の枝に擬態することで知られる珍しい昆虫を目撃して、湯村隆昭さんの「渡るナナフシ」。交差点をゆったり横断する姿はユーモラスでも、見守る方はハラハラどきどき。

 なんとも微笑(ほほえ)ましい、川口友美さんの「着せ替え狸のある蕎麦屋」。自慢の麺だけでなく、家族愛で味付けされた店頭サービスが、これからも引き継がれるといいですね。

 飛騨山脈の名だたる秀峰を制覇して、関博之さん「山の自慢話」。おっしゃる通り、誇らしい体験を自分の中にしまっておくのは、もったいない。大いに自慢しまくりましょう。

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