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【300文字小説】

私の名は 仁枝志予

イラスト・瀬崎修

写真

 「とうとう私一人になっちゃった」

 私は八月十一日の日めくりを見つめた。

 「ごめん、何しろ急な話で…」

 「いいの。八月には、もともとお盆休みがあるんだもの」

 「僕も二人で頑張るつもりでいたのに」

 「いいんだって。ただ私、もともと目立たないのに、もっと影が薄くなっちゃうかな」

 「そんなことないよ。君がいないと日本の米は育たないじゃない」

 「そうね、一人でも頑張らなきゃ」

 私の名は水無月(みなづき)。またの名を六月。

 一年のうちで祝日が無い月は、とうとう私だけになってしまった。

 (愛知県豊橋市・主婦・43歳)

◇ ◇ ◇ ◇

もしもし…? 青木真純

 「もしもし、おばあちゃん?」

 「ああ、ハルちゃん」

 「わたしは、ナツ。ハルはおばあちゃんの飼い猫の名前でしょ」

 「ナツ、元気かい? 最後に会ったのは、たしか去年の…」

 「先週も会ったけど」

 「おじいちゃんなら、今出かけてるよ」

 「おじいちゃん、もう亡くなってるし」

 「そうだったかね? この前、あなたに貸した十万円だけど…」

 「今まで一度も借りてないよ…って、これで合格でしょ? でも、この詐欺撃退問答、やっぱり長すぎない? おかげで、電話の用件忘れちゃった。とりあえず、そっちに行くから。着くまでに思い出すね」

 「はいはい、待ってるわ。気をつけてね」

 (東京都北区・パート・46歳)

◇ ◇ ◇ ◇

我が家の柿の木 安江良樹

 我が家の庭に古い柿の木がある。

 曽祖父が明治の初め接ぎ木したと伝える甘柿で、猩々(しょうじょう)という種類である。

 夏には涼しい緑陰をつくり、秋には甘い実を付け、熟柿になる頃は、小鳥や昆虫が果肉を求めてやってくる。

 秋も深まり、冷たい風が庭を吹き抜ける頃には、黄色や真紅(しんく)の様々(さまざま)な模様に彩られた落ち葉が、あたり一面綺麗(きれい)なカーペットを敷き詰めたようになるが、掃除も大変である。

 この甘柿は同根双幹で、太さや高さもほぼ変わらないのに、どういうわけか少し渋い実が混じることがある。

 結婚後五十有余年、熟した甘柿のつもりの二人だが、時として渋柿を噛(か)んだような思いになるときがある。

 はて、その渋い柿は、どちらの幹に成った実であろうか。 (岐阜県白川町・農業・86歳)

◇ ◇ ◇ ◇

 去年生まれた新しい祝日<山の日>を迎えてため息をつく、仁枝志予さんの「私の名は」。でも、忘れてませんか? あなたはジューン・ブライド、一番幸せな六月の花嫁ですよ。

 とぼけたやりとりではじまった、青木真純さんの「もしもし…?」。なるほど、家族で決めた合言葉だったんですね。こんなに複雑だと、覚えるだけで脳の老化防止に役立ちそう。

 何世代にもわたって家族を見守ってきた、安江良樹さんの「我が家の柿の木」。その味を、長年寄り添い、楽しんでこられたご夫婦。渋さも甘みもかみ分けて、末永くお幸せに。

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