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【300文字小説】

夕暮れ時 石黒道子

イラスト・瀬崎修

写真

仕事帰り、夕焼け空を眺めながら、人気(ひとけ)のない農道をミニバイクで走る。

 毎日違う空の色に感動しながら、いろいろな歌が頭をよぎる。

 「夕焼け空がまっかっか−」

 「夕焼け雲に誘われて−」

 「夕空晴れて秋風吹き−」

 二十代の頃、職員旅行のバスの中、

 「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む−」

 主任の優しい歌声が今も耳に残る。

 間もなく日が短くなり、この光景もあとしばらくと思うとセンチメンタルな気分に。

 フサフサしっぽのキツネに出会ったのも、この頃だった。 

(愛知県豊川市・パート・69歳)

◇ ◇ ◇ ◇

目玉商品 須郷隆雄

「今日の目玉商品は何かな」

 妻は新聞が来ると、まず、スーパーのチラシを見る。

 「タイが安い。今日は贅沢(ぜいたく)に甘露煮でもしようか」

 鉛筆を舐(な)めながらメモを取る。

 「無理すんなよ。俺はサンマの塩焼きでもいいんだよ。今が旬だし」

 妻はいつもの時間に、いつものスーパーへ出かけた。

 「タイのお頭にした。お頭の甘露煮よ。豪勢でしょう」

 お待ちかねの甘露煮が出てきた。

 「何だよこれは。尾頭付きじゃなくて、お頭だけじゃないか。これは、あら煮と言うんだよ」

 「だって、尾頭付きは高かったから、お頭だけにしたの。安かったぁ」

 「目玉ばっかりだな」

 「ねっ、目玉商品でしょ」

 (千葉県流山市・無職・71歳)

◇ ◇ ◇ ◇

鏡 後藤結香子

毎日、鏡を見るたびに思う。鏡に映っている今の自分の顔は、きっと無意識に作っている顔で、本当の自分の顔ではないと。

 ならば、本当の自分の顔を見たいかと言われると、躊躇(ちゅうちょ)する自分がいて嫌になる。

 「鏡よ鏡、私の本当の顔は…」と言いかけて、やめた。

 その代わりというわけではないが、私は毎日、鏡を磨いた。いくら綺麗(きれい)に磨いた鏡で自分を映したところで、本当の自分の顔など映らないのだけど、磨いた。

 そしてある日、つぶやくように「鏡よ鏡、私の本当の顔はどんな顔?」と聞いてみた。

 すると、鏡が言った。

 「ごめんなさい、私にも分かりません。だけど、毎日私を綺麗に磨いてくださるあなたの優しい顔が、私は好きです」

 (名古屋市北区・主婦・39歳)

◇ ◇ ◇ ◇

 秋は思いが深まる季節。ことに詩情をくすぐるのが、石黒道子さんの「夕暮れ時」。耳になじんだ歌詞の数々が、あかね雲をバックに浮かんでは消え、浮かんでは消え…。 

 お買い得情報満載のチラシを眺めて、須郷隆雄さんの「目玉商品」。そこから献立を逆算した結果、食卓に供されたのは、いささか期待と異なる一皿。にらめっこになりそうです。

 世界で一番美しいのは誰? と問いかけるのは白雪姫の継母ですが、後藤結香子さんが「鏡」に映してもらいたいのは、本当の自分。返ってきたのは、なるほどと思わせる優しい答。

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