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【300文字小説】

温泉めがね 瀧川和哉

イラスト・瀬崎修

写真

 わたしはお風呂に入るとき、いつもめがねを外して入る。体を洗ったりするのに邪魔だし、すぐ曇るからだ。

 でも、今日はせっかくの温泉。めがねをかけたまま入ろうと思った。

 脱衣所で浴衣を脱ぎ、扉を開けて浴場に入る。

 もうもうと立ち込める浴場の湯気を浴び、早速めがねが曇る。

 かけ湯をして足からそっと湯船に入り、しゃがみ込んで肩まで浸(つ)かった。

 そのまま体をグーンと伸ばすと、肩の力が抜けて「ホーッ」と小さく息を吐いた。

 曇ったままのめがねを外して湯船に入れると、めがねも「ホーッ」と言ったような気がした。

 (富山県滑川市・会社員・41歳)

◇ ◇ ◇ ◇

木橋と古い諺 平野和男

 ぼくの田舎では、木橋を渡る時、使われている橋板の枚数を数え終えると、身近な人が亡くなるという古い諺(ことわざ)があった。

 嫌なことに、ぼくの家の前に川があり、木橋がかかっていた。

 子供のぼくは、そこを渡るたびに鼻歌を歌ったりして橋板の枚数を数えないようにした。

 口笛を吹いてごまかすこともあった。

 その後、土地改良事業があり、木橋はコンクリート橋になった。

 橋を気にしないで行き来できるようになって、ぼくはほっとした。

 大きくなって、そんな諺は嘘(うそ)だと分かった。

 言い出しっぺは、ぼくの婆(ばあ)ちゃんらしかった。悪い年寄りだ。

 でも、ぼくも爺(じい)ちゃんになったから、何か、怖い諺でもつくろうかな。

 (静岡県掛川市・無職・70歳)

◇ ◇ ◇ ◇

毎年恒例 長谷川春香

 朝日が眩(まぶ)しい。晴天だ。心なしか空気も澄んでる気がする。

 さて、今日は毎年恒例、夫の実家へ新年の挨拶(あいさつ)に行く日。

 「毎年、正月は晴れてるよね」

 歩きながら私が言うと、夫が「そうだね」と一言。この会話も毎年恒例だ。

 夫の実家へ行き、両親と食事をしながら談笑。迎えたばかりの今年の話をする。これも毎年恒例。

 夜も更けて、一泊。朝、お雑煮を食べて近くの神社に初詣。毎年恒例。

 「そろそろ帰るか」

 夫が言い、「そうだね」と私は身支度。玄関先まで見送りに来る両親。ここまでは、毎年恒例。

 「来年は、お腹(なか)の子と三人で来ますね」

 大きくなったお腹を撫(な)でながら私が言う。

 そう! 来年の毎年恒例は、いつもと違った毎年恒例の予感。

 (東京都荒川区・主婦・26歳)

◇ ◇ ◇ ◇

 いい湯だな♪ の鼻歌が聞こえてきそうな、瀧川和哉さんの「温泉めがね」。いつもは脱衣所に置いてきぼりにされる相棒も、湯けむりに包まれて、ゆったり、のんびり。

 子ども心に刻み込まれた、平野和男さんの「木橋と古い諺」。どうやら悪い大人の作り話だったようですが、木橋はよそ見をせずに渡れという教えがこめられていたのかもしれません。

 初春の実家訪問を振り返って、長谷川春香さんの「毎年恒例」。挨拶や行事の段取りは例年通りでも、次回から、おめでとうの気持ちが何倍にもふくらむことでしょう。

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