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【300文字小説】

陽の当たる階段 大友恵美子

イラスト・瀬崎修

写真

 日本語学校の階段を、ベトナムから来た男子学生が上ってくる。

 「よいしょ、よいしょ」

 つぶやきながらも、若い彼の足取りは軽やかだ。

 大量のプリント類や教科書を抱え、階段を下りようとしていた私は、すれ違いざまに声をかける。

 「クォンくん、そんな日本語、よく知っていますね」

 彼は明るい笑顔でこちらを見つめ、足を止める。

 「意味はわからないけど、先生がいつも言ってるでしょ」

 そう言って私の荷物を手に取り、来た道を一緒に下ってくれる。光が差し込む階段で、学生たちの笑い声が弾(はじ)けた。 (神奈川県藤沢市・日本語教師・33歳)

◇ ◇ ◇ ◇

心の中の勝敗表 葛西知子

 <じゃんけん● オセロ● 卓球● …>

 連敗に次ぐ、連敗。

 何をやっても息子に勝てない。私が心の中でつけている勝敗表は、今や真っ黒だ。

 八歳に負けるなんて。思いもよらない事態に私の心は穏やかではなかった。

 先日、その息子と二人で映画を見に行った。

 終盤、感動のシーンで「さあ、泣くぞ」と思った瞬間、隣の息子がまさかの大号泣。

 周囲が引くほどの泣きっぷりに、またも敗北感を覚えた。

 心の中の勝敗表に<どら泣き●>と書き込む。完敗だ。今回だけは潔く負けを認めよう。

 これまでの怒りに任せた涙や、悔しさをこらえるための涙ではない。それは成長の証しだ。

 その涙に思わず私も涙する。

 だが、次の映画で先に泣くのは、私だ。

 (千葉県市原市・主婦・47歳)

◇ ◇ ◇ ◇

カエルの合唱 古橋登茂子

 小学校の通学路は周りが田んぼで、カエルの鳴き声が聞こえていた。

 友達とカエルの声を真似(まね)て歩いた日、ゲコゲコいう大合唱に耳をふさいで歩いた日、顔を突き出して見た田んぼの中のおたまじゃくし。水を張った田んぼが太陽を反射して眩(まぶ)しかった。

 その後、就職して何年ぶりかに帰郷したら、田んぼは埋め立てられて何軒も連なる建売住宅になっていた。

 カエルの声で騒々しかった通学路は閑静な住宅街にかわり、カエルの住む場所はなくなっていた。

 懐かしい故郷が、どこかよそよそしく思えた。

 淋(さび)しい思いにふけっていたら、楽しい歌声が聞こえてきた。

 その住宅に暮らす小さな子どもが大きな声で歌っていた。

 カエルの大合唱みたいに大きな声だった。

 (名古屋市中村区・会社員・47歳)

◇ ◇ ◇ ◇

 日本語を学ぶ留学生との愉快なやりとり、大友恵美子さん「陽の当たる階段」。耳で覚えた表現を、ためらわず口に出すのが上達の秘訣(ひけつ)とか。荷物を運び終えたら「どっこいしょ」ですね。

 黒星がずらりと並んだ、葛西知子さん「心の中の勝敗表」。子ども相手に、ついムキになっていたお母さんでしたが、豊かな感受性を育てた成績表には、大きな○がつきました。

 久しぶりの帰郷に子ども時代を思い出して、古橋登茂子さん「カエルの合唱」。あの頃の風景は消えてしまいましたが、そこに響いていた新しい歌声。次の帰郷が楽しみです。

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