東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 埼玉 > 記事一覧 > 11月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【埼玉】

「石川組製糸所」の盛衰振り返る 入間市博物館で特別展

石川家に残された生糸。本家の娘が嫁いだ時、親から託されたものだという

写真

 明治の創業で、大正末の最盛期には日本有数の生糸輸出量を誇った石川組製糸所(本店工場・入間市)の栄枯盛衰を振り返る特別展「石川組製糸ものがたり」が、入間市二本木の市博物館で開かれている。従業員の九割強を占めた女子工員の力量が同社の業績を支えたといい、人材の確保から寄宿舎設置、食生活、健康管理までを細かく紹介した資料の数々は興味深い。 (加藤木信夫)

 博物館によると、当時の製糸業は高度な労働集約型で、繭玉から糸取りをするための優れた視力と集中力を持つ女子工員を確保できるかどうかに業績が左右されたという。

 このため採用を担う募集員には、円満な家庭を営み信用のおける事務員が任命された。管轄の警察署からは、その身分を証明する鑑札が交付された。

 女子工員の多くは工場敷地内の寄宿舎で寝起きし、日に三度の食事を取る食堂が用意された。寄宿舎で指導的立場の舎監を務めた女性の著書には「工場の蒸気を使って大量に炊かれた白米のご飯はおかわりし放題。カレーライスもたびたび出された」とある。昼食にはシチューやうどん、塩ザケが出ることも。退職して嫁入りする際、料理経験のない女子工員も多かったという。

 各工場には医務室や病室(休養室、隔離室)があり、地元医師が交代で回診、看護婦(当時)は常駐していた。

 仕事そのものは厳しく、昭和初期の勤務時間は午前六時半〜午後五時半の十一時間制。「公休日は月に二日だけで、賃金も高いとは言えなかった。実家で農作業や家事に追われるより、同世代と自由時間を持てる工場勤めの方が良いと感じる女性が多かったようです」と博物館の担当者。

 本店工場では、あいさつ代わりに「おかせぎなさい」という耳慣れない会話が交わされた。労働を強制する意図はなく、「お互いきつい仕事だけど頑張りましょう」という意味合いだったという。

 特別展は十二月十日まで。女子工員に関わる資料や写真のほか、本工場を三百分の一サイズで推定復元したジオラマ、産卵後の母蛾(が)の病気の有無を検査したライカの顕微鏡、湯を満たして繭から糸を引き出した繰糸(そうし)鍋など約三百点が展示されている。

 開館時間は午前九時〜午後五時、観覧料は一般二百円、大学生以下無料(常設展示は別途料金)。問い合わせは入間市博物館=電04(2934)7711=へ。

<石川組製糸所> 1893(明治26)年、実業家の石川幾太郎が豊岡町(現在の入間市)で創業。大正〜昭和初期にかけて、同町の本工場を含む県内外の9工場で女子工員約4000人が働く日本有数の大製糸会社に成長した。化学繊維の登場や昭和初期の世界恐慌の影響で徐々に業績が悪化、1937(昭和12)年に解散した。

 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】

PR情報