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【埼玉】

地図描いたまち忘れない 宮城・東松島で被災 川越の尾形さん、語り部続け

更地が広がる野蒜地区を歩きながら、震災前の様子を語る尾形祐月さん=宮城県東松島市で

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 2011年3月の東日本大震災当時、宮城県東松島市の野蒜(のびる)小学校6年生だった尾形祐月(ゆづき)さん(19)は現在、川越市に住み、市内の大学に通いながら、高台移転の進む古里で語り部活動を続けている。「ここにも人の暮らしがあったことを知ってほしい」とかつてのまちの様子を積極的に話すようになってから、多くの人々とのつながりを感じている。 (高田みのり)

 「ここは薬局だったと思います。今でこそ海まで一面何もないけど、昔は家や店が並んでて」。今月上旬、尾形さんは、かつて家や店が並び、行き交う人たちでにぎわっていたという野蒜地区を歩いた。

 震災に遭ったのは卒業式のちょうど一週間前。総合学習の時間に作った地区の紹介マップを完成させ、発表した日だった。A4判の紙にまち並みを描き、中心地だった大通り沿いのコンビニや中華料理などの店を、お薦めの理由を添えて紹介。観光客にも見てもらいたいとJR野蒜駅に置いてもらうよう交渉したばかりだった。その地図に描いたまちが数時間後になくなってしまうとは…。

 小学校の昇降口で揺れに遭遇。いったん帰宅した後、祖母に連れられ、避難所だった小学校に戻った。二人で体育館の二階部分に逃げたが、中にも津波が押し寄せ大きな渦を巻いた。体育館に約三百四十人いた避難者のうち、少なくとも十八人が亡くなったといわれている。

 その年の四月、仙台市内の中高一貫校に進んだ。野蒜からの入学者は一人だけ。同級生の被災経験は停電や断水程度だった。「不幸自慢をしたいわけじゃない」。自分の体験を話さぬまま時間が過ぎた。

 三年前の高校二年の五月、知人の誘いで東松島市の女子生徒らでつくる語り部グループに出会い、「私も話したい」と参加を決めた。大学受験などで活動を減らしたこともあるが、これまでに地元や全国各地で四十回近く語り部を務めた。

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 かつての様子を積極的に語る。グループの一員で小学校の同級生だった大学生小山綾さん(19)は「まちを思い出せなくなる寂しさは私にもあり、祐月の姿勢には共感できる」。世話人の鈴木貴之さん(45)は「最初は引っ込み思案だったが、大好きな自分のまちを知ってもらいたいという思いがひしひしと伝わってくる」と尾形さんの変化に目を見張る。

 最近は高台に新しく家が建ち、市外に移った人が戻ってくるようになった。尾形さんの話を聞いた各地の人からは「こんど野蒜に行くね」「やっと新しい駅ができたんだね」と連絡が来る。「誰かとつながって野蒜に来てくれて。そうしている限り、このまちが忘れられることはないんだな」。地図に描いたまちは、尾形さんが語り掛けた人の心にも描かれている。

 

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