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【埼玉】

<つなぐ 戦後73年>軍艦模型 鎮魂の夏 蓮田の岡添さん、記憶や資料基に製作

寄贈を決めた「摩耶」の模型を背に「戦争のつらさを忘れてはいけない」と話す岡添さん=蓮田市で

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 蓮田市にある高齢者介護施設の一室に精巧な軍艦の模型が飾られている。製作したのは岡添正さん(98)。戦時中、学徒出陣で海軍士官を経験。当時の記憶や資料などを基に製作したものだ。広島原爆の惨禍も間近に見た。苦くつらい、それでもかけがえのない思い出が詰まった模型は、この夏、船の科学館(東京都品川区)へ寄贈する。 (坂本充孝)

 模型は帝国海軍の大型巡洋艦「摩耶(まや)」の二百分の一スケールで全長一メートル。本体から細部の部品までヒノキの木材から削りだし、塗装を施した。水上偵察機「瑞雲(ずいうん)」二機も搭載している。

 「摩耶は一九四四(昭和十九)年十月にフィリピン沖で敵潜水艦に撃沈されますが、そのとき瑞雲を積んでいませんでした。搭載する予定でしたが、間に合わなかったのです。せめて模型は瑞雲を積んだ姿にしてあげたかった。それが私の気持ちでした」

 岡添さんは話し始めた。

 高知県出身で慶応大学の学生だった岡添さんは四三年に召集され、広島県呉市で終戦を迎えた。戦後は復学し、大手百貨店に勤務。

 その傍らで趣味として模型作りに取り組んだ。六九年に「摩耶」の設計図を入手して製作に着手。完成したのは二〇〇四年で三十五年の月日を費やした。

 海軍時代は、少尉として主に航空機の整備を担当。世界最先端の性能を持ち、水上機の傑作といわれた瑞雲の整備にも携わった。

 一九四五年八月六日早朝。呉の補給部にいると、目の前で閃光(せんこう)がさく裂した。

 窓の外を見ると、北の空にキノコ雲があった。

 広島の方向へ軍用車で向かった。焼け焦げて裸同然の人々が逃げてきた。

 「たった一発の爆弾で広島が火の海だ」「海軍さん、この先に行ってはいけない」と口々に話した。重傷者を車に詰め込んで呉に戻るのが精いっぱいだった。

 この広島原爆の惨禍を経て戦争は幕を閉じた。

 「しかし、当時のことを忘れたくはなかった。多くの人が命を失い、技術屋が精魂を傾けた船や航空機も海の藻くずと消えたのです。なんという無駄だったか」

 模型を作り続けたのは、鎮魂の思いからだった。

 「ずっと手元に置きたかったが、私もこの年齢ですから、そうもいかないと寄贈を決めました。大勢の人に見ていただきたい」と岡添さんは話している。

 

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