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【埼玉】

<つなぐ 戦後73年>「戦争、国が人生奪う」 故郷熊谷で空襲体験・森村誠一さん語る

作家の森村誠一さん

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 「人間の証明」などの作品で知られる作家森村誠一さん(85)は、終戦前夜の一九四五年八月十四日夜から十五日未明にかけ、故郷の熊谷市で空襲を経験した。闇夜を切り裂く焼夷(しょうい)弾に、川を埋め尽くした無数の遺体。玉音放送を聴いて感じた喜び。共同通信の取材に「戦争とは、国が人々の人生を奪うこと」と、平和への思いを語った。

 森村さんは当時十二歳。十四日深夜、米軍機が次々に落とす焼夷弾で、熊谷市中心部にあった自宅も瞬く間に炎に包まれた。水のある場所を求め、近くを流れる星川へ家族で逃げると、川は既に人であふれており、郊外の荒川を目指した。

 「通りの真ん中を行け!」。父親の声に従い、炎と炎の壁の間を懸命に走った。振り返ると、後ろを逃げて来る人を焼夷弾が直撃するのが見えた。怖くてたまらなかった。ようやく荒川の土手にたどり着くと、父親が強い口調で言った。「よく見ておけ、おまえが生まれ育った街が燃えている」

 市内に戻ったのは翌日。星川には大勢の遺体が折り重なるように横たわっていた。顔はきれいで、水遊びしているようにも見えた。その中に、ひそかに思いを寄せていた近所の女学生の姿を見つけた。ショックだった。

 空襲で焼けた自宅裏のカボチャを、近所と分け合って空腹をしのいだ。シャベルで運ぼうとしたカボチャがぐしゃっと崩れたかと思うと、人間の頭部だった。「戦場に行かなくても、戦争は人をこんなふうにしてしまうんだ」。その光景を今も夢に見る。以来、カボチャが嫌いになった。

 戦時中、「大きくなったら何になりたい?」という問いへの答えは決まっていた。男の子は「兵隊さん」、女の子は「看護婦さん」。「作家になりたい」という夢を口にするのは許されない空気だった。「戦争に連れて行かれる前に、それぞれの人間の将来っていうものは国から殺されちゃってるわけです」

 玉音放送は焼け野原で聴いた。涙を流す人もいたが、「戦争が終わった」「軍隊がなくなる」と喜ぶ人たちの姿もあった。それは森村さん自身も、長く待ち望んでいた瞬間だった。「あの輝きは今でも覚えている。これで好きな本が読めるという喜びが心を満たした」と振り返る。

 作家活動の原点には、故郷での空襲体験と戦争への怒りがある。「平和っていうのは、自分の人生を選べること。誰かの命令ではなく、自分の思いで」。その重みをかみしめるように、森村さんは力を込めた。

<もりむら・せいいち> 1933年熊谷市生まれ。69年「高層の死角」で江戸川乱歩賞。映画化もされた「人間の証明」など「証明」3部作が大ヒット。旧日本軍の暗部を告発したノンフィクション「悪魔の飽食」は社会に衝撃を与えた。

<熊谷空襲> 終戦前夜の1945年8月14日午後11時半ごろから15日未明にかけて、熊谷市に対して行われた米軍による焼夷弾攻撃。中心市街地の約3分の2を焼失し、266人が犠牲になった。日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏することを決定した後に実施された。秋田市や群馬県伊勢崎市などへの攻撃とともに「最後の空襲」と呼ばれている。

 

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