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【栃木】

<忘れない宇都宮空襲 体験者が語る「7・12」> (上)悪臭と異臭 正常な感覚まひ

静かな流れの釜川に下りた石場久雄さん=宇都宮市で

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 太平洋戦争末期の一九四五年七月十二日、午後十一時すぎだった。当時十三歳だった石場久雄さん(86)は、父親の「空襲だ。起きろ」の叫び声で、目を覚ました。すぐに、庭先に掘られた防空壕(ごう)に避難した。戦局が悪化し、もうずっと前から非常時に備え、足にはゲートルを巻き、学生服で寝ていた。

 非常品や配給で受け取った大豆を入れた米びつを防空壕へ運ぼうとしたが、慌てていて、米びつを落としてしまった。

 中心街が広がる東の空は、火炎で真っ赤に染まっていた。身重だった母親と小学校六年の妹、小学一年の弟は、郊外の知人宅に身を寄せることになった。父親と二人で自宅に残った。

 耳をつんざくような米軍のB29爆撃機の爆音、焼夷(しょうい)弾の投下音は、翌日午前二時前まで続いた。幸い、自宅周辺は被害に遭わなかった。

 当時、石場さんは旧制宇都宮工業学校(現宇都宮工業高校)の二年生。三年生から上の上級生は、学徒動員で、軍需工場に駆り出されていた。

 間もなく学校から非常呼び出しがあった。焼け跡でのがれき整理と金属回収への動員だった。集合場所の小学校に向かう途中、寄り添うように焼け死んだ母親と幼児の姿を目にした。火に追われ、中心街を縫うように流れる釜川に裸のまま飛び込み、膨れ上がった遺体もあった。

 真夏の炎天下の作業で、金属は鍋やトタンなど、ほんのわずかしか回収できなかった。遺体を荼毘(だび)に付しているそばで、昼食用に母親が作ってくれたおにぎりを食べた。「悪臭と異臭の中にいて、正常な感覚がまひしていた」と振り返る。

 宇都宮駅に近い、田川に架かる「宮の橋」付近で作業中、爆音が響いた。米軍のP51戦闘機が低空飛行で襲ってきた。辺りは一面焼け野原。かろうじて焼け残った商店の大型金庫を見つけ、身を隠した。戦闘機の襲来はやまず、機銃掃射を受け続けた。生きた心地がしなかった。

 「戦闘機は地上二十メートルほどの超低空飛行で迫ってきた。パイロットの顔をはっきり覚えているという同級生もいた」。機銃掃射では、作業に動員された生徒数人が命を落とした。

 八月十五日。玉音放送は、被害を免れた自宅の六畳の茶の間で、家族そろって正座して聞いた。敗戦のショックより、ほっとした思いの方が強かった。その夜、灯火管制から久しぶりに解放され、電灯の明かりがまぶしかった。

 あれから七十三年。子どもながらに、悲惨な戦争体験をした一人として、平和への思いを抱く。「日本は被爆国。世界の指導者には、核、そして戦争のない平和な地球を取り戻してもらいたい」

 石場さんが遺体を目にした釜川は、かつて大雨のたびに水があふれ「暴れ川」の異名があったが、大規模改修が行われ、遊歩道も整備された。あのとき、火の手を逃れるように多くの市民が飛び込んだ面影はみじんもない。今は夏草に覆われ、市街地のオアシスとなっている。

  ◇  ◇ 

 戦後から七十三年の年月が刻まれた。軍需工場があった「軍都・宇都宮」の中心部は米軍による空爆で壊滅したが、戦災の記憶は遠のく。「宇都宮空襲」を体験した二人を訪ねた。(この連載は原田拓哉が担当します)

<宇都宮空襲> 1945年7月12日午後11時すぎから約2時間半、米軍のB29爆撃機115機による焼夷弾の投下が行われ、市中心部の6割が、ほぼ壊滅状態となった。宇都宮市教育委員会によると、死者は620人、けが人は1100人をそれぞれ超えた。焼夷弾の直撃よりも、火災で死亡した市民が多かった。軍需工場があったり地方の拠点となったりしていた全国の都市が同時期に標的となり、宇都宮も含まれた。

 

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