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【栃木】

<忘れない宇都宮空襲 体験者が語る「7・12」> (下)一晩で焼け野原「日本終わった」

「衛戍病院はこの辺にありました」と話す中根信子さん=宇都宮市で

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 五機、六機と編隊を組んだ米軍のB29爆撃機が、空を連日のように横切っていた。

 南東にある筑波山の上空に現れると、国産機を生産していた中島飛行機(群馬県)を空爆するため、南西へと飛び去った。空襲警報のサイレンが一日に何回も鳴った。

 一九四五年。宇都宮第二高等女学校(現宇都宮中央女子高校)を前年に卒業した中根信子さん(91)は、空襲などから市民を守る警防団の一員に加わっていた。B29爆撃機を自宅から見上げては、戦局の悪化をひしひしと感じていた。

 七月十二日は、朝から雨だった。「雨だから、空襲はないね」。母親とそんな会話を交わし、遅くまで寝ずにいた。午後十一時すぎ、突然の空襲警報。寝ていた七人のきょうだいを起こして、庭の防空壕(ごう)に急いだ。いよいよ宇都宮も標的となった。

 「こんなところにいたら、焼け死ぬぞ」。二時間ほどすると、男性の叫ぶ声が響いた。東側は、すでに火の海。一歳の弟を母が、三歳の妹を中根さんが背負い、西へと逃げた。坂道は、煙が竜巻のように充満していた。焼けたトタンが飛んできた。頑丈な病院の建物に逃げ込み、先に避難していた二十人ほどと夜明けを待った。

 早朝、辺りは焦土化していた。残っていたのは石蔵だけ。水道は通じていたのか、至る所で水がチョロチョロ出ていた。「国のためにみんな一生懸命に頑張ってきたのに、一夜にして焼け野原。日本は終わったと思った」

 自宅は奇跡的に無事だった。庭には二十一発の焼夷(しょうい)弾が落とされた跡があった。近くの路上で年配の男性の焼死体を見た。緊張と疲労から、腰から砕けた。一週間、寝込んだ。

 役人だった父親は北京に派遣され、家族は戦局の悪化に伴い、父の実家がある青森県弘前市へ疎開することを決めていた。宇都宮空襲から約二週間後、一家九人で宇都宮を列車で出発した。途中の仙台駅の駅舎は焼失していた。弘前駅まで二十二時間かかった。祖母の心尽くしの夕食がありがたかった。

 中根さんは女学校時代、勤労動員に駆り出され、陸軍の衛戍(えいじゅ)病院で、衣類や包帯の洗濯に追われた。傷病兵が次々運ばれ、ベッドが廊下にまであふれ、周辺にはバラックのテントが二十棟以上並んだ。感染症で手に傷を負った。

 卒業式は「蛍の光」の代わりに、軍歌「海行かば」を斉唱したことを覚えている。

 そんな中根さんにとって、あの戦争で最もつらかったのは、沖縄戦での「ひめゆり部隊」の生徒たちの悲報だった。「私たちと同じ世代の女学生だった」と心が痛んだ。

 衛戍病院の北側には兵舎があり、練兵場など軍の関連施設が並んでいた。「一般の人は立ち入れない場所でした。病院に沿って、桜並木がきれいに伸びていた」。その後、病院の跡地には、栃木医療センターが整備された。一帯には今、閑静な住宅地が広がる。

 平和な時代が続く。戦災の傷痕が風景から消え、当時を知る体験者の記憶にも、いずれは耳を傾けられなくなる。中根さんは惨禍を目の当たりにした一人として、次代を担う若者たちに伝える。「あの戦争があって今の繁栄があることを忘れないで」(この連載は原田拓哉が担当しました)

 

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