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【東京】

<東京の城景>(3)渋谷城(渋谷区) 金王丸はいたのか

渋谷城があった金王八幡宮。境内には城の前を流れていた川に架かっていた石橋が移設された

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 渋谷駅から坂を上ったオフィス街に、樹木がさざめく場所がある。金王(こんのう)八幡宮。サラリーマンがベンチで疲れを癒やしている。

 神社の由緒によれば、平安時代後期、河崎基家という武将がいた。後三年の役(一〇八三〜八七年)で源義家を助けた功で、武蔵谷盛庄(むさしやもりのしょう)といわれた地を賜った。

 子・重家の代に、京都の御所で渋谷権介盛国(しぶやごんのすけもりくに)を名乗る賊(ぞく)を捕まえた褒美として渋谷姓を名乗るのが許された。高台に居館が築かれた。現在の神社境内だ。

 「自然の地形をうまく利用した、と思います」。権禰宜(ごんねぎ)の田所克敏さんが言う。北東には琵琶池の水が流れ込む谷があり、西には渋谷川、少し離れた場所には目黒川が流れていた。それぞれ堀の役目を果たした。

 歌舞伎の演目に登場する正義のヒーロー・渋谷金王丸は重家の子だ。源義朝に仕え、十七歳のとき保元の乱(一一五六年)で初陣を飾る。平治の乱(五九年)を題材にした「平治物語」では、愛知県・野間で謀殺された主君の無念を京都にいる愛人・常盤(ときわ)御前に伝える役回りだ。

 ただ、金王丸の伝説や渋谷氏を研究している、白根記念渋谷区立郷土博物館・文学館の担当者は「金王丸は実在したのか? 確実な史料はありません」と言う。

社殿の前に置かれた「砦の石」

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 なぜ、金王丸は伝説となったのか。田所さんは「数々の逸話に見られる武将としての矜持(きょうじ)が人々の共感を呼んだ」とみる。

 義朝の死後、出家して土佐坊昌俊となった金王丸。今度は、頼朝から義経追討を命じられる。金王丸は、常盤御前の腕に抱かれた幼い義経を知っていたため、手をかけることができない。最後は、自らが討ち取られて波乱の生涯を終える。

 「命のやりとりをする武将の覚悟の生き方が、江戸時代に理想とされたのでしょう」

 室町時代、渋谷氏は関東の有力者だった上杉氏についた。城は一五二四年、小田原の北条氏が江戸に攻め上り、上杉氏を破った「高輪原の戦い」で焼かれたとされる。

 もう城は築かれなかった。金王八幡宮の境内にも面影はない。ただ一つ、社殿の前に表面が平らな石がある。渋谷城の「砦(とりで)の石」と伝えられている。 (原尚子)

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 ◆金王八幡宮 渋谷駅から徒歩7分。隣の東福寺は、金王丸の守本尊(まもりほんぞん)で、戦の際には像が敵の矢を集めて味方に渡したという矢拾(やひろい)観音をまつる。ほか、ゆかりの寺社は江戸時代に「金王相撲」をした氷川神社、金王丸が肌身離さず持っていた「人肌観音」がある長泉寺など。区文化総合センター大和田で毎年、当代松本幸四郎さんが「渋谷金王丸伝説」を上演している。今年は10月22日。

 

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