東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 東京 > 記事一覧 > 9月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【東京】

<太宰治没後70年 三鷹の記憶> (5)無頼派に変貌した悲劇

「走れメロス」と「斜陽」

写真

 太宰治が東京・三鷹に引っ越してきた一九三九年、自宅の周囲は畑が続いていた。同じ年に、中島飛行機の下請け工場が創業。軍需産業の街として三鷹は発展し、戦時中には空襲を受け、太宰の自宅も壊れ、四五年四月に妻津島美知子さんの実家がある甲府へ疎開。同年七月に妻の実家も空襲で全焼し、太宰の生家がある青森に疎開した。

 三鷹の自宅に、家族と戻ったのは戦後の四六年十一月。復員した人たちがあふれ、駅前は闇市でにぎわう戦後の混乱を体現する街に変わっていた。

 四七年に発表した「斜陽」がヒット。戦後の急激な変動で没落した上流階級を指す「斜陽族」という言葉が流行語になった。四八年には、文学者の高額所得者番付に入る流行作家になった。

 戦後、太宰は、織田作之助や坂口安吾、檀一雄らと、あらゆる権威に反逆する「無頼派」と呼ばれるようになった。

 安藤宏東京大教授(日本文学)は、太宰の無頼派としてのイメージを印象づけたのは「八雲書店から出版された太宰治全集の口絵写真用に、写真家の田村茂が一九四八年二月に撮影した二十七枚の写真」と指摘。太宰は命を絶つ四カ月前、田村と二人で三鷹を歩き、陸橋で愛用のマント(二重回し)を着てたたずむ姿や古書店で本を探す様子などが残された。

 安藤教授は「太宰は死を意識して、無頼派作家としての自分を後世に残すことを考えて、さまざまに演技していた。田村と太宰は飲み仲間で、意気投合した田村との見事な共同作品が出来上がった」と評価。

 だが、戦争中心の世の中になっても、都心から離れた三鷹で、芸術を追究すると決意していた太宰が、戦後の混乱を象徴する無頼派作家として、時代の最前線で脚光を浴びたのは幸せだったのか。安藤教授は「太宰の語りが安定する源は、中心に対し隔たりをつくり、異端であることだった。だが戦後は、隔たりをつくろうにも、つくれなくなってしまった悲劇がある」と話している。

  =終わり

写真
 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】

PR情報