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【国際】

良い作品が分断の壁壊す イシグロ氏ノーベル賞講演

 【ストックホルム=共同】今年のノーベル文学賞を受賞する英国人作家カズオ・イシグロ氏(63)が七日、スウェーデンのストックホルムで記念講演を行った。貧富の格差の拡大や人種差別主義の台頭を踏まえ、「分断が危険なまでに深まる時代、耳を澄まさなければならない。良い作品を書き、読むことで壁は打ち壊される」と述べ、文学者が担う使命の重要性を説いた。

 講演のタイトルは「私の二十世紀の夕べ−そしていくつかのささやかな発見」。同氏は日本人の両親の下で長崎市に生まれ、五歳で渡英。講演では、大人になるにつれて記憶の中で薄れてゆく日本と向き合ったことが創作活動の原点であり、小説の中で「私にとっての日本」を築き直したいと思ったと振り返った。

◆記念講演要旨  困難乗り越える時、文学が重要

 ノーベル文学賞を受賞するカズオ・イシグロ氏が七日行った記念講演の要旨は次の通り。

 一九七九年の秋。当時私は二十四歳。もし日本の文化について聞いたら、私は五歳の時に日本を離れてから一度も帰国しておらず、知識がないと告げただろう。

 その秋に、英ノーフォーク州ボクストンにたどり着いた。ロンドンでの活気に満ちた暮らしを離れ、小説家となるため、静けさと孤独の中にいた。

 私はロックスターになる計画を立てていたが、作家になろうと思うようになっていた。ある夜、気付くと迫られたような意志で、日本について書いていた。第二次大戦末期の自分が生まれた長崎市についてだった。

 七九年の冬から八〇年の春にかけ、ほとんど誰とも話さなかった。その四〜五カ月の間に、私は原爆投下から復興する長崎を舞台にした最初の長編小説「遠い山なみの光」の半分を書き上げた。その決定的に重要な数カ月間がなければ、私は作家になっていなかっただろう。

 六〇年四月、五歳の時に私は、両親らと共にサリー州ギルフォードという町に来た。父は英国政府で働くために来た海洋学者だった。私は地元の小学校に通い、ほぼ間違いなく、学校の歴史上唯一の英国人でない児童だった。

 日本が敵だった大戦が終結してからまだ二十年もたっていなかったことを思い出すと、この英国のコミュニティーが、私たち家族を受け入れた寛容さには驚かされる。

 家では日本人の両親と共に別の生活を送っていた。別の規則、別の期待、そして別の言葉があった。両親は当初、一、二年で日本に帰国すると考えていた。毎月、漫画や雑誌が入った小包が日本から届き、私はむさぼり読んだ。両親が日本での暮らしのエピソードを話すことで、日本のイメージや印象は安定的に供給された。私は自分自身の思い出も持っていた。祖父母や、住んでいた伝統的な日本家屋、通った幼稚園などだ。

 私は心の中で「日本」と呼ばれる非常に詳述された場所を熱心につくりあげていた。そこは、私が誰であるかという一定の感覚、そして自信の源となった場所だ。実際に日本に一度も帰国したことがないという事実が、日本という国の私の見方をより鮮明で個人的なものにした。

 それ故、記録に残す必要があった。私の頭の中に存在していた日本は、子どもが記憶、想像、思索から感情の中で組み立てたものだったかもしれない。年齢を重ねるたび、どんどんぼんやりとしたものになっていくことに気付くようになった。

 「私の」日本が、他にはないもので、ものすごく壊れやすいものだという感覚が、執筆活動に駆り立てたと確信している。その世界の特別な色彩、慣習、思いを巡らせたことが、記憶から永遠に消えてしまう前に、書き留めようとしていた。小説の中に私の日本を再構築し、書き終えた後に「この中に私の日本があります」と言えるようにしたいと思っていた。

 私は数多くの機会で歌手の歌声から非常に重要な教訓を学んできた。人の歌声は不可解なほど複雑に混じり合った感情を表現できる。

 九九年十月、かつてのアウシュビッツ強制収容所を訪れた。私たちの世代がその影の下で育った暗黒の力の核心に近づいたと感じた。私を招いてくれた人々はこれらの遺構を保護すべきかどうか彼らのジレンマについて語った。私には、より大きなジレンマの強烈な隠喩に思えた。記憶にとどめるために何を選択すべきなのか。忘却し、前に進むためにより良いのはいつなのか。

 私は四十四歳だった。その時まで、第二次大戦とその恐怖や勝利については、親の世代に属することだと考えていた。だが、これらのとてつもなく大きな出来事をじかに目撃した多くの人々は近い将来、いなくなるということが、ふと頭に浮かんだ。記憶にとどめることは、私たちの世代の責任になったのか。親の世代から私たちの次の世代に、できる限り未来へ記憶や教訓を伝える義務があるのではないか。

 忘れることと覚えていることのはざまで葛藤する個人を小説に書いてきた。国家や共同体が同じ問いに直面したら、どうなるかということを、物語として書きたかった。国家は個人と同じように記憶をとどめ、忘れ去るのだろうか。

 私と(妻の)ローナは二〇〇一年初めのある夕べ、自宅でハワード・ホークス監督の映画「特急二十世紀」を見始めた。しばらくして簡潔だが印象的な考えがひらめいた。小説や映画、演劇に出てくる、生き生きとした迫真の登場人物たちに、私がしばしば感動することができない理由は、登場人物がお互いに興味深い人間関係にないからではないか、と。

 全ての素晴らしい小説は、私たちを感動させ、楽しませ、怒りを覚えさせ、驚かせるような、私たちにとって重要な人間関係というものを含んでいなければならない。

 作家人生で驚くほど遅くになってから気付いた考えだったが、今となっては転機だった。

 重要な転機というものはこうして訪れるものだろう。他の多くの仕事でも同じかもしれないが、しばしばささやかで、みすぼらしく思えるような瞬間だ。しかしそれが現れたとき、何であるかを認識できることが重要だ。

 私にとって大切なのは、物語が感情を伝えるということであり、国境や分断を超えて人間が共有するものに訴えかけるということだ。物語とは、ある人物が別の人物に話し掛けることだ。私の言っていることが分かるか。あなたも同じように感じるか、ということを。

 私は最近、何年も幻想の中を生きていたことに気が付いた。私の周囲にいる多くの人々のいら立ちや不安に気付いていなかった。文明的で刺激的な、皮肉屋で寛大な人々でいっぱいの私の世界は、実際には私が想像していたよりずっと小さい世界だったと認識した。気がめいることだったが、一六年は欧州や米国における驚くべき政治的出来事と、世界中で起きた不快なテロ行為の一年だった。その一年はリベラルで人道主義的な価値観のとどまることない進展が幻想だったのかもしれないと教えてくれた。

 私たちは、先人たちが欧州を全体主義体制、大量虐殺、歴史的に前例のない大虐殺の場所から、誰もがうらやむ、国境がほとんどない自由民主主義的な地域に見事に変えた姿を見た。私たちの多くが幸せな結末だと信じたものを目撃した。

 しかし今、振り返ってみると、ベルリンの壁が崩壊して以降の時代は、自己満足と、機会が失われた時代のように思う。富と機会における巨大な不平等が、国民、国家間で増大することが許されてしまっている。特に、〇三年の悲惨なイラク侵攻、〇八年の恥ずべき経済破綻後に、一般の人々に押しつけられた長年の緊縮財政政策は、極右的なイデオロギーと民族的ナショナリズムがまん延する現在を引き起こしてしまった。人種差別主義が再び台頭し、まるで埋葬された怪物が目を覚ましつつあるかのように、文明化された通りの下でうごめいている。

 引き続き努力せねばならないし、最善を尽くさねばならない。というのも文学は重要であり、困難を乗り越えようとしている時、特に重要になるだろうと信じるからだ。私たちを鼓舞し導く若い世代の書き手にも期待する。彼らの時代であり、私が欠いている知識と才能を持っている。だから私は楽観的だ。

 世界全体を正しい場所に据えるのは難しいことだが、私たち自身の小さな持ち場にどうやって準備できるかを考えさせてほしい。私たちが本を読み、書き、印刷し、推薦し、非難し、賞を与える「文学」という持ち場についてだ。もし私たちがこの不確実な未来で重要な役割を担おうとするなら、私たちがより多様であらねばならないと私は信じている。特に二つの点においてだ。

 第一に、エリートが優先する世界の文化という心地よい区域を超えて、われわれに共通した文学の世界を広げなければならない。第二に、良い文学というものを形づくる定義をあまり窮屈かつ保守的に見ないということに大いに気を配らなければならない。分断が危険なほどに深まる時代において、私たちは耳を澄まさなければならない。良い作品を書き、読むことで壁は打ち壊される。

 私たち人類が希求する幸福の輝かしい象徴として、ノーベル賞をあり続けさせてくれたことに、感謝申し上げる。 (共同)

 

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