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【国際】

イスラエル建国、難民の「ナクバ」から70年 私はパレスチナ人でありたい

エジプト北部シャルキーヤで、「美しい景色が忘れられない」とパレスチナに思いをはせるシャンマさん

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 イスラエルは十四日、建国から七十年を迎える。それは多数のパレスチナ人にとっては、故郷を追われ難民化した「ナクバ(大惨事)」の七十年でもある。エジプト北部シャルキーヤ県には、歴史に翻弄(ほんろう)されたパレスチナ難民の村がある。「夢がかなうなら、故郷に戻りたい」。難民は帰還の夢を抱き続けている。 (シャルキーヤ県で、奥田哲平、写真も)

 首都カイロから車で三時間余りの農村地帯にあるファデル村。一九四八年当時、ベエルシェバ(現在のイスラエル南部)から逃れた約百人がたどり着いた。いまだに泥や赤れんが造りの粗末な家屋が貧しい生活ぶりをうかがわせる。

 「戦闘機が飛び回って近くの集落を爆撃し、炎が上がるのが見えた」。シャンマさん(82)は第一次中東戦争勃発当時の混乱を覚えている。顔にはオリーブの木を描いた入れ墨。パレスチナの証しだ。

 野宿生活を続ける逃避行で、病弱だった母が亡くなり、埋めた。一カ月ほどでエジプトにたどり着いた。パレスチナで有力部族の一員だった生活は一転。初めはテント生活を送り、農家の手伝いをしてためた金で家を建てた。父はマンゴーを食べては種をかばんに詰めた。いつかパレスチナの地に植えたいとの願いからだ。

 村の人口は現在五千人。子どもの半数は学校に通っていない状況が、不安定な立場を物語る。住民は国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)に登録されず、支援を受けていない。五二年のエジプト革命でナセル大統領のアラブ民族主義が高まり、難民と認めなくともパレスチナ人を手厚く保護したからだ。

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 しかし、エジプトは七九年にイスラエルと平和条約を結び、難民の存在はしだいに忘れられていった。一時旅券は取得できるものの、エジプト人なら無料の大学進学は授業料が必要で、貧困家庭への食料支給も受けられない。それでもエジプトに同化せざるを得ないため、パレスチナ人としてのアイデンティティー喪失という深刻な問題が横たわる。

 「エジプトは第二の故郷。でも、自分たちの伝統文化を忘れたくはない」とアイド・ナムリ村長(51)。村の文化センターには故アラファト・パレスチナ解放機構(PLO)前議長の写真が掲げられ、子どもには国歌や歴史を教える。同じ難民と結婚し、子ども八人を育て上げたシャンマさんは「娘にはパレスチナ料理や刺しゅうの方法を伝えた。私の帰還の夢はかなわないかもしれないが、せめて受け継いでほしい」と話し、ナクバへの思いをかみしめた。

<パレスチナ難民> イスラエルの建国宣言により起きた第1次中東戦争を機に、ヨルダンやレバノンなど周辺国に70万人が逃れた。現在は子孫を含む500万人以上とされ、UNRWAが58カ所の難民キャンプで福祉教育支援を行う。国連決議では難民の帰還権が認められているが、イスラエルはアラブ系住民が増えればユダヤ人国家の存亡に関わるため、一貫して拒否する。中東和平交渉の論点の一つ。

 

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