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【国際】

日韓修好の最大功労者 金鍾泌氏死去 戦後韓国政治を体現

「三金」と呼ばれた金泳三氏(左)、金大中氏(中)と金鍾泌氏=1989年、ソウルで(聯合・共同)

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<評伝> 韓国の政治家で、金鍾泌(キム・ジョンピル)氏ほど日本と深く関わった人物は数少ないだろう。

 一九六二年、情報機関、韓国中央情報部(KCIA)の初代部長として、大平正芳外相(当時)から日本が無償供与三億ドル、政府借款二億ドル、商業借款一億ドル以上を提供するという合意を取り付けた。

 二人が鉛筆で紙片に数字を書き込んだ「金・大平メモ」は、長らく対日請求権問題を巡り原則論の応酬にとどまっていた日韓国交正常化交渉に弾みをつけた。六五年の日韓基本条約締結にこぎつけた最大の功労者といえる。

 韓日議員連盟会長に二度にわたって就任し日本の政界に太いパイプを築いた。国会開会中でも大相撲が始まると、議員会館でテレビにくぎ付けになるなど日本文化を愛する知日派でもあった。子供のころは菊池寛の小説に熱中したという。

 六一年の朴正熙(パク・チョンヒ)少将による軍事クーデターでは参謀役を担い、首相や与党・民主共和党総裁として波乱に満ちた同政権を支えた。

 八〇年代後半から民主化が進むと、地元の忠清道(チュンチョンド)を基盤とし、後に大統領となった金泳三(キム・ヨンサム)、金大中(キム・デジュン)の両氏とともに韓国を動かす「三金」政治の一角を占めた。

 ただ、本人は「自分は大統領をやっておらず、大統領を補佐しただけ。三金ならぬ『二金』だ」と韓国紙に語っていた。九二年には泳三氏、九七年には大中氏と手を握り、両政権誕生に貢献した。

 二〇〇四年に政界を退くまで議院内閣制の導入を唱えた。大中氏は大統領誕生の要因となった鍾泌氏との連合で、議院内閣制への改憲を約束したが、結局ほごにした。鍾泌氏は後に「私と手を組まなければ(大中氏は)大統領になれなかっただろう」と悔しさを吐露したことがある。

 〇一年に鍾泌氏の自宅で心に残る言葉を尋ねた時、しばらく間をおいた後、中国唐代の詩人・李白の詩の一節である「笑而不答(笑って答えず)」を挙げた。

 「記者はややこしい政治のことばかり聞いてくる。しかし、こういう取材はいいね」と笑顔で話したのが印象的だった。

 (元ソウル支局長=現中国総局・城内康伸)

◆軍政時代から第一線 「三金 歴史に」と悼む

 【ソウル=境田未緒】二十三日に九十二歳で亡くなった韓国の金鍾泌元首相は、日韓関係の発展に大きく寄与し、軍事政権時代から民主化後まで、長く政界の一線で活躍した。共に一時代を築いた金泳三、金大中両元大統領もすでに他界し、韓国メディアは「三金時代がすべて歴史の中に」(聯合ニュース)などと大きく報じた。

 与党「共に民主党」は「軍事クーデター、韓日国交正常化、国会議員九選、首相二回、新軍部による権力型不正蓄財者の烙印(らくいん)、自民連の創党、三金時代など故人の生は言葉どおり、明暗が交差した」と弔意のコメントに記した。

 長く韓国現代政治の一線に立ち続けた金鍾泌氏の功績には、さまざまな評価がある。

 朴正熙氏(後に大統領)の軍事クーデターに参加して軍事政権の一翼を担ったほか、民主化後は政敵でもあった二人の金氏の大統領当選にも貢献し、「キングメーカー」と呼ばれた。

 朴政権下で韓国中央情報部長として主導した日韓国交正常化の過程で、今も領有問題のある竹島(韓国名独島(トクト))について「爆破すればいい」と発言し、問題になったことも。

 本人は、韓国紙のインタビューに「爆破したとしても日本に渡せないという意味だった」と述べている。

 私生活では、詩や書、絵などをたしなみ、美術界を支援。愛妻家として知られ、二〇一六年発刊の証言集の前文では、故郷につくった墓に「愛する妻が眠る日当たりのよい場所に一緒に眠る」との言葉を寄せた。

 

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