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【国際】

<敵として 友として 中国人留学生40年> (中)強い熱意、成功つかむ

呉四海さんが司会を務めていた上海テレビの日本語番組「中日之橋」=上海テレビのホームページから

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 一九九六年九月、中国・上海テレビで前例のない番組が始まった。タイトルは「中日之橋」。日本の社会や文化を紹介する内容で、出演者は日本語で話し、逆に中国語の字幕が付く。

 司会を務めた呉四海(ごしかい)さん(56)は大阪のテレビ局で研修を受けた後、八九年に関西学院大学に入学、日本文化論などを学んだ。帰国後、半年の準備期間を経て、番組をスタートさせた。

 「すべてが初の試みだったが、日本で学んだ経験が生きた」と振り返る。二〇一四年九月まで続いた番組は、日本に関心を持つ上海人に広く知られていた。

 中国から日本への留学生は八〇年代半ばから順調に増加していく。八三年に中曽根康弘首相が提唱した「留学生十万人計画」が呼び水になった。中国政府が私費留学を認めたことも、中国人の日本留学熱を高めた。

 初期の公費留学生が改革開放への貢献が求められたのに対し、この時期の留学生からはさまざまな分野で成功を収める人が現れる。

 中国政法大学教授の陳景善(ちんけいぜん)さん(49)は結婚四年後の九七年から十年間にわたって早稲田大学などで学んだ。途中で長男の出産も経験する。「もう無理かなとあきらめかけたが、当時七十四歳だった祖母が『勉強を続けなさい』と背中を押してくれた」。長男は生後三カ月で祖母に預け、法学博士号を取得して帰国したときは五歳になっていた。

作家としてデビューし、昨年3月、中国福建省でサイン会を行った李小嬋さん=李さん提供

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 朝鮮族の陳さんは韓国語も操り、日中韓の専門家が集まる学術会議やシンポジウムでは自ら通訳も買って出る。「法律の専門知識があって三カ国語を使える人はそんなにいないですから」と笑う。中国ではまだ未整備の部分が残る商法の専門家として活躍し、学内では日本の大学との提携交渉などにも携わる。

 李小嬋(りしょうぜん)さん(63)は八三年に早稲田大学に留学する前、福建省のアモイ大学で台湾研究をしていた。「生活は保障されていたが、自由な国で可能性に挑戦してみたかった」という熱意で研究職を捨てた。

 卒業後に日本企業に就職。九六年に独立してアパレル会社を設立した。中国でも自社工場をつくり、洋服のデザインから生産、日本への輸出を一括して行う。現在、会社経営の一線からは退き、作家として、日本語と中国語で小説やエッセーなどを出版。三重県桑名市に住む李さんは「日本は私のジャパンドリームをかなえてくれた」と決断が間違っていなかったことを実感している。

 留学経験者の裾野が広がる一方、この時期の日中関係は揺れた。まず、八九年の天安門事件が友好ムードを吹き飛ばした。執拗(しつよう)に歴史問題を持ち出した九八年の江沢民(こうたくみん)国家主席の訪日、〇一年の小泉純一郎首相の靖国神社参拝。国のトップの言動で、関係は一層冷え込んだ。

 上海テレビの「中日之橋」にも「なぜ日本語放送をやっているのか」と批判が寄せられ、放送時間を一時的に三十分から十五分に短縮されたこともある。

 日本人にとって中国との心理的な距離が広がり、中国人には日本が「旧敵国」として意識に上り続ける。日中関係は悪化と小康状態の間で揺れ続けた。

 (上海支局・浅井正智、中国総局・中沢穣)

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