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東日本大震災6年

84人犠牲の石巻・大川小 教員遺族も共に 交流通じ児童遺族と語り部

 声をかき消すほどの強い風が、壁の崩れ落ちた校舎を吹き抜ける。宮城県石巻市大川小学校。津波はここで児童七十四人と教職員十人の命を奪った。東日本大震災の発生から十一日で六年。二年生の担任だった父隆芳さん=当時(55)=を亡くした宮城教育大三年の佐々木奏太(そうた)さん(21)は今、児童遺族との交流を通じて、あの日の出来事と正面から向き合えるようになった。

 「自分が語っていいのだろうか」。震災を語り継ぐ大学の団体に所属し、大川小を訪れるとき、ずっと後ろめたさを感じていた。震災当時、佐々木さんは同県南三陸町志津川中の三年生。「訓練じゃないんだ」。必死に生徒を誘導した先生の姿が目に焼き付いている。一時は教員を目指した。だからこそ、児童を守れなかった教員の遺族に語る資格があるのか、悩んだ。

 昨年五月、大川小で三男の雄樹君=当時(12)、六年生=を亡くした佐藤和隆さん(50)からフェイスブックの「友達申請」が来た。同小から見た夕日の写真を掲載したすぐ後だった。佐藤さんは、児童の父母らが県と市の責任を問う損害賠償訴訟の原告。佐々木さんはそのことを知っていた。

 教員の遺族だと打ち明けると返信があった。「最初は先生たちのことも恨みました。でも、いろいろと分かり始めて、先生たちも同じ被害者だと思えるようになりました。機会があれば来てください」

 同じころ、教育実習先が決まった。父と子どもたちの集合写真が頭に浮かんだ。「自分に守れるだろうか」。三カ月間悩み続け、行かないことを決めた。

 やり残したことがあると思った。原告の遺族と直接会って胸の内を聞くことだ。同九月、佐藤さんに電話して「会いたい」と伝えた。

 佐藤さんが震災後に始めた農場の事務所を訪れた。「子どもを守らなければいけなかったのは、お父さんだったと思うよ」。最初に言われたが、つらくはなかった。「父を思うと残念ですが、自分も先生が子どもを守るべきだったと思います」。素直に言葉が出た。

 一時間ほど話した時、脇にあったパソコンの画面に目が行った。休止状態になった画面は、運動会や学芸会での雄樹君を映し出していた。父が亡くなってからずっと泣くことのできなかったその目から涙があふれ、止まらなかった。帰り際「またな」と声を掛けられた。

 昨年十二月には二人で大川小に立ち、語り部をした。立場は違っても、それを超える何かが見えた気がする。

 この三月、語り部などとして、スケジュール帳はびっしり埋まっている。「自分だから語れることがある」。思い切り涙を流したあの日から、そう信じられるようになった。 (塚田真裕)

 

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