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【即興政治論】

日本国憲法の「男女平等」を起草した ベアテ・シロタ・ゴードンさん Q憲法にどんな思いを込めましたか?

2007年5月1日

日本国憲法の「男女平等」を起草した ベアテ・シロタ・ゴードンさん

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 3日で施行60年を迎える日本国憲法。日本女性の地位向上の願いを込めて男女平等条項を起草したのは、GHQ民政局のベアテ・シロタ・ゴードンさんでした。記者が以前、自宅を訪ねて行ったインタビュー内容を、歴史の貴重な証言として紹介するとともに、施行60年にあたってのメッセージを寄せてもらいました。 記者・豊田洋一

地位向上願い 権利を女性に

 豊田 なぜ憲法草案起草にかかわることになったのですか。

 ベアテ 私は一九四六年の一月から、連合国軍総司令部(GHQ)民政局行政部の政党課でリサーチャーとして日本女性の政治運動や小政党を調査していました。二月四日、民政局長のホイットニー准将が私たち局員を呼んで「マッカーサー元帥から憲法草案をつくるよう命令がありました」と伝えたのです。当時、政党課にはロウスト中佐、ワイルズ博士と私の三人がいて、行政部長のケーディス大佐は私たち三人に「人権のことを書きなさい」と割り振りました。草案は一週間でつくらなければなりません。三人で分担することにして、ほかの二人が私に「あなたは女性だから、女性の権利を書けばいいのではないですか」と言ったのです。

 豊田 どんな気持ちで引き受けましたか。

 ベアテ 憲法草案を書くなんて思っていなかったから、最初はびっくりしましたが、女性の権利を書くことになり、すごく喜びました。私は五歳半から十五歳半まで日本にいて、当時の日本女性には権利が全然なく、その苦労を詳しく知っていましたから、女性にもいろんな権利を与えたいという気持ちで草案づくりを始めました。憲法の専門家でない私は、いろんな国の憲法を参考にしようと、ジープに乗って東京の図書館を回り、本を借りてきました。草案づくりは極秘で、一カ所だけ行くとよくないと思い、三カ所で十か十一の憲法を見つけ出して事務所に戻ったのです。

 豊田 草案づくりでは、どんなことを重視しましたか。

 ベアテ 集めてきたスカンディナビアや、ワイマール、ソ連の憲法には女性の基本的な権利だけでなく、社会福祉の権利もちゃんと書いてあったので、憲法にこれを入れたいと思いました。民法を書くのは、官僚的な日本男性ですから、憲法にちゃんと入れないと、民法にも入らないと思ったんです。民法を書く人が縮められないよう草案に詳しく書きました。

 豊田 そのまま草案になったのですか。

 ベアテ ケーディスは「ベアテさんは日本女性のために、米国憲法以上の自由を書きましたね」と言ってくれましたが、「基本的な男女平等はいいが、社会福祉は憲法には合わない。そういうものは、民法に書かなければいけない」と認めてくれません。私、泣いちゃったんですよ。反論したんですが、まだ二十二歳の私には大佐ほどの力はなく、戦ってもどうにもならない。不満でしたが、基本的権利にとどめることを了承しました。

 豊田 日本側はGHQの草案をすんなり受け入れたのですか。

 ベアテ 日本政府には「これを基本に日本の憲法をつくってください」と草案が渡されていました。一カ月後、日本政府代表者とGHQとの会議があり、私は通訳として呼ばれました。会議は午前十時から始まり、すぐに私たちの草案を議論しているんじゃないことが分かりました。日本側は全く違う憲法案をつくってきたのです。ですから、日本側の案を英訳したり、ケーディスの返事を日本語に訳したり、議論があっちこっちに飛んで進みません。そうしたら、(当時外相だった吉田茂元首相の側近)白洲次郎さんが、書類をテーブルに置いて、どこかに行ってしまいました。それは私たちの草案の日本語訳でした。ケーディスは、この草案をベースにしようと言い、それ以降、議論が少し楽になりました。

 豊田 その後、議論は順調に進みましたか。

 ベアテ それでも天皇制は、ずいぶん時間がかかりました。日本側は天皇の権限を強くしたかったし、私たちは弱くしたかった。四、五時間はその議論だけでした。でも、私たちは部屋から出られません。陸軍から出された缶詰をそこで食べて、議論を続けました。

 豊田 ベアテさんの男女平等はどうでしたか。

 ベアテ 翌日の午前二時ごろ、男女平等の条項が(議題に)出てきました。日本側は最初「これは日本の歴史、文化に合わない。憲法には入れられない」と言ったので、激しい議論になりそうでした。でも、ケーディスはこう言ったんです。「女性の権利はシロタさんが書きました。通しましょう」。日本側はそれを聞いてびっくりしたと思いますが、私は通訳が早く、日本側からも信頼されていたので、日本側も最後には男女平等を受け入れてくれました。

 豊田 九条の戦争放棄規定は問題にならなかったのですか。

 ベアテ それはマッカーサーが「入れなければならない」と、最初から命令していたので、日本政府代表者との協議では全然、議論にならなかったと思います。ただ、ケーディスは亡くなる前、私に「九条の最初の草案には、侵略戦争だけでなく、自衛戦争もやってはいけないと書いてあったが、自分が消した」と言っていました。彼は、どの国でも自衛権はあると思っていたんです。戦争放棄条項はマッカーサーかホイットニーか、誰が書いたのかは分かりません。でもケーディスが自衛戦争の放棄を消したことは確かです。

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 このインタビューは二〇〇四年四月二十日、ニューヨーク・マンハッタンのベアテさんの自宅で行われました。

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 1923年、ウィーン生まれ。29年、作曲家・山田耕筰の招きで東京音楽学校(現・東京芸大)に赴任したピアニストの父、母とともに来日。少女時代を東京・乃木坂で過ごす。39年、米留学。卒業後、米タイム誌リサーチャーなどを経て、45年、GHQ民政局スタッフとして再来日。日本国憲法の人権条項起草にかかわる。著書に「1945年のクリスマス」(柏書房)など。ニューヨーク在住。

 

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