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【公共事業を問う】

【第一部】翻弄される人々(2) 『現地再建』で懐柔 代替地遅れ 集落崩壊

2009年12月6日

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 終戦から八年後の一九五三年二月、ぼたん雪が舞う小学校の分校の校庭に、八ッ場ダム建設に反対する群馬県長野原町の住民約八百人が集まった。代わる代わる演説した後、当時、高校一年だった篠原都さん(72)が学生代表で演壇に立った。

 「生活の根底を脅かすことは人道的にみて罪悪です」。聴衆の間から「そうだ」という大きな掛け声がわき起こった。町を挙げての反対運動だった。

 「とても寒かったのに、帰る人はいなかった。みんなすぐにでも町がダムに沈むように受け止めていた」。都さんは半世紀前のことを鮮明に覚えていた。

 計画は当初、吾妻川の水質がコンクリートを溶かすほどの強酸性だったこともあり、なかなか進まなかった。だが、上流に水の中和工場が造られ、計画に現実味が増すと、住民の足並みは乱れた。

 六五年、建設省(当時)はあらためて町にダム計画を提示。住民の一部から「反対しても造られるなら条件を争った方がいい」という意見が出て、反対、条件付き賛成、賛成と三派に分裂した。

 川原湯温泉地区は反対派が多数を占めた。「建設反対」と書いた看板を旅館の屋根に掲げ、役人が現れると住民はドラム缶をたたいて仲間に知らせ、水をかけて追い払った。

 樋田ふさ子さん(80)は以前、温泉地区で旅館を経営していた。夫の両親は数少ない条件付き賛成派だった。

 「(元首相の)福田赳夫さんのところに頼まれたの。でも義母は反対派の家の出で、親類から『なんで賛成派がいるんだ』と責められ、泣いていたわ」

 県は八〇年、道路整備や観光振興などの生活再建案を作成。住民に歩み寄りを求めた。ダムを受け入れれば町が豊かになるという懐柔策だ。数年後、ダム反対同盟が交渉のテーブルに着き、反対運動はしぼんでいった。「反対を貫き通すのは難しい。状況ごとに人の気持ちが変わっていった」。反対集会で演説した篠原都さんの夫の正明さん(73)が言う。

 国が水没予定地の五地区に提案したのは、近くに地区ごとの代替地を造成して集落を移す「現地再建」。だが、用地買収や保安林解除に時間がかかり、代替地の分譲は延び延びに。補償交渉は二〇〇一年に始まったが、代替地への移転は〇七年暮れまで待たされた。

 「代替地を希望していた人は多かったが、補償金を受け取ると、町外に移転するようになった」と都さん。地元では「代替地を造るのが面倒な国土交通省が、わざと遅らせているのか」とささやかれた。都さんが暮らす川原畑地区は九十四戸から十九戸に激減。空き地だらけとなり、土を掘り返してミミズを捕るイノシシが増えた。夫妻は来年、代替地に移る。

 「代替地が早くできれば、みんなそこに移った。今では人が少なく、集落として成り立たない。ダムで失ったものは大きすぎる」

 ダムに振り回された半世紀。都さんは寂しそうにつぶやいた。

 

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