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【公共事業を問う】

【第一部】翻弄される人々(6) 故郷去る住民 つながり壊れた

2009年12月10日

「奥秩父もみじ湖」と愛称も決まっている滝沢ダム。頻繁な地滑りで完成していない=埼玉県秩父市で、本社ヘリ「わかづる」から

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 満々と水をたたえたダム湖には、今のところ程遠い。埼玉・秩父鉄道の終着駅から山間部を西へ七キロ入ったところにある滝沢ダム。二〇〇五年に本体工事が終わったものの、水をためる試験が始まると、周辺の道路や斜面に地滑りによる亀裂がたびたび発生。満水より五十メートル低い水位のまま、地滑り対策工事が続いている。

 「今ごろはとっくに完成しているはずだった。『ダムができるところは壊れる』と言うが、確かにそう。悲しくなるね」。十九年前に移転した横田義男さん(68)がつぶやく。

 住んでいた旧大滝村(現秩父市)滝ノ沢地区はダム建設で地滑りの危険があるとして全戸が移転。自宅と畑は国道になった。先祖の土地を犠牲にして造られただけに、ダムには早く機能してほしいと思っている。

 ダムの傍らの石碑には、受け入れ条件などをめぐって分裂した六つの協議会ごとに、百十二戸の移転者の名前がある。地元に残った傷跡の深さを物語る。

 「ダムというのは恐ろしいよ。円満だった集落が、意見の違いで折り合いが付かなくなった」。水資源開発公団(現水資源機構)との補償交渉で委員長を務めた山中照三さん(88)はそう振り返る。

 初めは地域全体で反対したが、ダム先例地の視察のたびに、現地の人から「国家事業を甘く見ない方がいい。最後は強制執行もあり得る」と聞かされた。反対運動は少しでも多くの補償をもらおうという条件交渉へ変わっていった。

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 不便な山暮らしから便利な町へ移る好機と考えた人も少なくなかった。秩父の中心街まではバスと電車を乗り継がなければならず、医者にかかるにも一日がかりとなる。谷間の集落では冬場だと日当たりが一日一時間に満たないこともあった。「辺ぴな山の渓谷で暮らしていたんだから、ダムは良かった」と話す移転者もいる。

 大規模な代替地を造らなかったため、水没地区の住民の多くは近隣の町へばらばらに出て行った。移転完了から十三年がたち、かつての集落のつながりは失われつつある。旧大滝村に残った黒沢保夫さん(60)は、集団移転を望まなかった住民の心情を代弁する。

 「補償で見たこともない金が入るわけだから、集団移転だと『あの人はこんな家を建てた』とか見えるじゃないですか。人間関係は続けばいいけど、多少離れてじっくりと生活再建したほうがいい気がした」

 移転後も集まれるようにと、毎年秋にダム近くの竜泉寺で「ふるさとまつり」を十年以上続けてきた。「お祭りをするから来てくださいと、百十二世帯全部に往復はがきを出すけど、最近は二十人ほどしか来ない」と山中さんが寂しげに言う。今年はまだ開いていない。

 毎年出席してきた黒沢さんも人のつながりを保つ難しさを感じている。「出て行ってしまうと、戻りがきかないから」。ダムの補償金で建てられた寺の神楽殿は、扉が閉ざされたままだ。 =おわり

 (北川成史、内田淳二、木下大資が担当しました)

<滝沢ダム> 荒川上流の中津川に建設中の多目的ダム。1969(昭和44)年に計画が発表された。総事業費は当初の610億円から2320億円に膨らんだ。2005年に始めた試験湛水(たんすい)は地滑り発生のたびに中断。08年春に一度満水にしたものの、まだ本格運用に至っていない。地滑り対策工事には145億円が費やされ、11年度に完成予定。

 

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