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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】

(11)傍聴席から殴りつけ

「やつに会える…」。正夫が手にした初公判の呼び出し通知書=一部画像処理

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 前代未聞だろう。

 二〇〇二年五月二十八日、武藤恵喜(ぶとうけいき)の初公判が開かれた名古屋地裁九〇三号法廷で“事件”は起きた。

 開廷前、須藤正夫(仮名)は傍聴席の最前列で身じろぎもせず、待っていた。事実婚とはいえ、二十年以上連れ添った二歳下の妻、千葉春江(61)を手にかけた男がじきに現れる。

 春江が殺されて二カ月半。幾度も検察に足を運んでは「必ず死刑に」と願い出た。当時、二十九歳だった正夫の長女も血のつながらない「母」への思いをこう訴えていた。「私の子も、母さんを見て『ばあば』と呼んでいました。孫の成長を楽しみにしていた母さんの人生をすべて奪った。私たち家族からかけがえのない大切な人を奪った」

 それが、いったいどんな男なのか。正夫はずっと考え続けていた。

 法廷に、刑務官に挟まれた恵喜が連れられ、目の前の被告人席に座る。髪は伸びっぱなし。背筋を張るでもなく、なで肩が一層、だらんとして見える。

 これが? こんなだらしなく、根性も無さそうな男に? 春江、なぜ逃げられんかった…。

 「間違いありません」。検事が朗読した強盗殺人のあらましを恵喜はすべて認めた。さらに詳しくあの日の一部始終が読み上げられる。「首にマイクコードを二回巻き付け…わいせつ目的と偽装するためスカートの裾をまくり上げ…」

 あの朝、現場に駆けつけ、その目で見た光景がよみがえる。雑居ビル、階段、店の入り口、さえぎろうとする警官、床に転がった女房、変わり果てた姿。正夫は混乱した。

 「てめえ、ばかやろう、おれが殺してやる」

 叫んだ。左手で拳をつくる。傍聴席の柵から身を乗り出し、一メートル先に座る恵喜の左頬を背後から殴りつけた。騒然とする廷内。審理は中断し、裁判長は正夫の退廷を命じた。

 恵喜にけがが無かったからか、正夫の暴行事件は不起訴とされた。恵喜は後日、牧師の戸田裕への手紙にこう記している。

 「私が原因で罪人をつくったのでは、泣いても泣ききれません。ほっとしています」

 正夫はその後も公判に通い、被告人席をにらみ続けた。恵喜が正夫と目を合わせることは一度もなかった。 (敬称略)

 

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