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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】

(13)囚人に「先生」と呼ばれ

恵喜が暮らしたのと同形式の名古屋拘置所の独居房=名古屋市東区で

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 名古屋拘置所での武藤恵喜(ぶとうけいき)の一日は午前七時半の朝の点呼で始まる。十階にある四畳の独居房。起床すると入り口に向かって正座し、刑務官の呼び掛けを待つ。

 「二百四十番」。二〇〇二年七月、名古屋・中署の留置場から移管されてからそれが恵喜の呼び名だった。ただし、囚人仲間たちは番号ではなく、こう、呼んだ。「先生」−。

 塀の中では外の世界と人を測る物差しが違う。

 ある日、十階の廊下で三十代ぐらいの暴力団員の男がふと恵喜に話し掛けた。

 「おっさん、何やったの」

 「殺しだよ」。男はすぐに深々とこうべを垂れた。顔色が少し変わっていた。

 このときまで四半世紀近くを塀の中で暮らしてきた恵喜はベテランの罪人だ。しかも二人を殺(あや)めている。囚人仲間から一目置かれ、恵喜の房には、しばしば悩みごとを相談する手紙まで舞い込んだ。

 中署の留置場で同房だった十歳下の沢田竜一(仮名)も恵喜を慕った一人。偶然だが、沢田も恵喜に続き、名古屋拘置所の十階へ移された。気掛かりは当時、小学三年生の長男。「中学の入学式には出たい」。所内で袖すり合うわずかな時間、そんなことも話した。

 恵喜はあえて手紙で告げた。「早く仮出所するには、中に知り合いがいては印象が良くない。話し掛けてはいけない」

 四年後、沢田はぎりぎりで仮出所し、入学式に出席する。礼を言いたくて、恵喜に三度、面会を申し入れるが、三度断られる。返事はやはり手紙。「親子三人、今の生活を守るには、くどいようだが、過去を忘れて生きることです」。沢田にとって恵喜は「優しい人」だった。

 「先生」と慕われ、衣類や本など牧師の戸田裕からの差し入れで身の回りにも不足はない。名古屋拘置所の居心地は決して悪くなかっただろう。

 「出所できたら本を書きたい」。戸田に対し、将来の夢を語り始め、裁判も終幕近くの二〇〇三年一月には「先生」らしく自らの刑も予想した。

 「岐阜刑務所に入ると思います。二十年近いつとめに入ることは間違いない」

 二人を手にかけた男。五月十五日、名古屋地裁での一審判決は−。 (敬称略)

 

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