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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】

(22)厳罰化 生死分かつ

湯山は一人の人間として恵喜と向き合ってきた

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 恵喜(けいき)に死刑を宣告した二〇〇四年二月の名古屋高裁判決だが、無期懲役だった名古屋地裁と比べ、判断の根拠がさほど異なっているわけではない。

 名古屋のスナックママを殺(あや)めた恵喜。身勝手で、残忍で、遺族の感情は悲痛極まりない−。どちらの判決も似通ったことを言っている。半面、ママにすきがなく、もう逃げられないと追い詰められたゆえの凶行であり、事前の計画性は無い、としたところも同じ。

 地裁ではこれが刑を減じる要因となったが、高裁判決は「しかし…」と続く。一九八三年にも長野で旅館の女将(おかみ)を手にかけ、刑務所を出た後も無銭飲食などを繰り返した懲りない男。追い詰められたのは「自業自得」だとし、死刑を回避する事情には当たらないと断罪した。

 死刑選択の「永山基準」が八三年に示されて以降、一人を殺したケースでは計画性が無いなら死刑も無いのが相場だった。例外は無期懲役の前科があり、仮釈放中にまた起こした場合だけ。恵喜が長野の事件で処せられたのは懲役十五年、つまり有期刑だが、高裁判決は「改善の兆しがみられない」ことを重んじ、その点もくみ取らなかった。

 当時の高裁の裁判長で、〇六年に退官した小出〓一(じゅんいち)は今も「個別の事件については話さない」と口をつぐむが、弁護士の湯山孝弘には「事実関係の争いではなく、裁判官の評価で変わった判決」と思える。

 無期から死刑。刑の重さでは一段上がるだけだが、その間には生死を分かつ最後の一線が横たわる。湯山には納得できなかった。「はざまにあるのなら、死刑にしちゃいけない」

 ただ、そんな湯山をよそにそのころ、重罪に手を染めた者の厳罰化が世のすう勢だった。一連のオウム真理教事件が契機とされるが、治安への不安が広がり、時の首相、小泉純一郎が「世界一、安全な国」を掲げ、犯罪対策の強化や司法改革を訴えたのが〇三年。

 恵喜を含め、〇四年は全国の裁判所で永山基準が出てから最多の四十二人に死刑が宣告された。内閣府の世論調査で死刑存続を求める意見が初めて八割を超えたのもこの年だ。

 何しろ、湯山は身近でこんな声も耳にした。「死刑はあった方がいい。俺みたいな極悪人は社会から排除するべきだ」。恵喜がそう言った。 (敬称略)

 

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