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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】

(28)むうちゃんと出会う

むうちゃんが5歳のときに描いた恵喜の似顔絵

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 「むーすーんで、ひーらーいて」。ふっくらしたほっぺを上下させ、あどけない声を張り上げる一歳半の女の子。小さなこぶしをグーしてパー。振り付けだって決まっている。

 まことにほほ笑ましい。無表情を良しとする立ち会いの刑務官が思わず顔をほころばせたのも、無理もないだろう。

 二〇〇八年秋のある日、名古屋拘置所の東館二階に並ぶ面会室のひとつ。女の子の伸ばした手の先、アクリル板の向こうでは死刑囚、加納恵喜が、じっと耳を澄ませていた。

 女の子は愛称を「むうちゃん」という。

 恵喜が“母”真智子を亡くして半年余り。肉親とのきずなはとうに断たれている。このころ、五十八歳。家族のいない恵喜はむうちゃんを「孫」と呼び、面会を心待ちにするようになっていた。

 ◇ 

 恵喜は〇八年春に真智子を失った後、支援者への手紙で心の内を明かしている。「この先どうなるかと死にたい、死にたいと思っていたんですよ」

 独りぼっちで、ただ死を待ち続ける−。真智子には想像できたのだろう。「恵喜さんのこと、お願いします」。生前、自分の亡き後を託した夫婦がいる。

 市原信太郎とその妻、誉子(しょうこ)。夫妻が恵喜と知り合ったのは真智子と同じころ。〇四年二月の名古屋高裁での死刑判決の前後、恵喜の支援者だった友人を通じ、面会や、手紙のやりとりを始める。三十九歳の信太郎は、名古屋のミッション系短大の学校付き牧師。一歳下の誉子はふつうの主婦だった。

 誉子ははじめ、真智子のことを「大丈夫かな」と不安に思っていたという。たまにボランティアで路上生活者を手助けしていた誉子は支援に熱心すぎると得てして、冷めるのも早いことを見知っていたからだ。だが、真智子は違った。今でも感心する。「加納さんへの献身は最後までとてつもなく大きなものでした」。病魔に侵された真智子が名古屋を去ると、洗濯や衣類の差し入れ役を快く引き継いだ。

 最高裁で上告が棄却され、恵喜の死刑が確定して十日ほど。〇七年四月、夫妻は初めての子を授かる。「むうちゃん」である。

 出産から二カ月後、誉子は初めてむうちゃんを手に抱き、恵喜と面会した。命の尊さを感じてほしい、なんて大層な願いがあったわけではない。「ただ、加納(恵喜)さんが出産を楽しみにしてたし、預けるところも無かったから」

 はじめのころ、むうちゃんはアクリル板の手前にある幅三十センチのカウンターですやすやと眠っていた。

 一歳になってすぐに真智子が亡くなる。むうちゃんは手をつき、立てるようになっていた。

 面会のペースは週一回から二回へ。誉子は「けいきおじさんだよ」と教えてきたが、むうちゃんは口が回らない。人生で二人を殺(あや)めた死刑囚は「けっけちゃん」と呼ばれるようになった。

 むうちゃんが「むすんでひらいて」を披露したあの日、けっけちゃんが、市原夫妻に手紙をしたためている。むうちゃんから「夢や喜び、癒やしをもらいました」と。 (敬称略)

 

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