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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】

(37)迎えた最期のとき

恵喜の日記には2月21日以降の日付も刻まれていた

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 二〇一三年二月二十一日。加納恵喜(けいき)は前年末に移った名古屋拘置所西館八階の八二九号房でその朝を迎えた。いつも通り午前七時半に朝食。麦飯にみそ汁、おかず三品のメニューもふだんと変わりはない。およそ一時間後、刑務官に呼び出されるまで、恵喜はきょうも平穏にすぎると思っていたことだろう。

 西館八階からエレベーターで二階へ。渡り廊下を東館へ向かい、その先の階段を下りると所内で「開かずの扉」とも呼ばれる、地下の刑場へ続く扉がある。

 偶然だが、入所者の一人がその日、四、五人の刑務官に囲まれ、渡り廊下を歩く恵喜を目にしている。「どけっ、後ろを向け」。刑務官に怒鳴られながら、その入所者が垣間見た恵喜は暴れるでもなく、おとなしい様子だったという。開かずの扉からは、刑場に焚(た)かれる線香らしき香りがうっすらと漏れていた。

 名古屋拘置所の関係者によると、恵喜は最期までひどく取り乱しはしなかったらしい。ならば執行はこんなふうに進んだはずだ。

 目には布の目隠し。後ろ手に手錠をされ、一メートル四方の踏み板に乗る。ナイロンでできた直径三センチのロープを首にかけられる。刑場の隣の小部屋には板を開くためのボタンが三つ、刑務官が三人。誰のボタンが開けたのか、分からぬよう、三人がいっせいに押す。

 体は四、五メートル下まで落ち、人によって表現は違うが「ダンッ」や「ドンッ」とロープが張る音がする。吊(つ)り下がったまま、医師が心停止を確認し、さらに五分ほど置いて、ようやくロープから外される。

 もし、執行の日が来たら…。恵喜は面会や手紙のやりとりを続けてきた市原信太郎一家への手紙にこう記したことがある。「死刑がつらくて泣くのではありません。別れがつらくて泣くでしょう」

 最期のとき、恵喜が泣いたかどうかは分からない。

 拘置所関係者によると、恵喜は「死を待ち続ける生活に疲れました」と言い残した。養子縁組した母、真智子(仮名)が生前差し入れてくれたお金がまだ幾らか。市原一家の一人娘、むうちゃんへ、ランドセル代三万円を渡してほしいとも遺言したという。

 人生で二人の罪無き命を奪った男。獄中でさまざまな人々と出会い「他人を思う心」を知ったという男。幼子の成長に目を細め「生きたい」と願い始めた男が死んだ。死刑確定から五年十カ月。六十二歳だった。

 (この連載は近く再開します)

 (敬称略)

 

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