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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】

(40)罪と向き合ったのか

湯山が真智子と初めて会った喫茶店は窓から向かいの拘置所が見える。二人は恵喜にしょく罪を願う“同志”だった=名古屋市東区で

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 弁護士の湯山孝弘は二〇一三年二月二十一日、牧師の市原信太郎からの連絡で加納恵喜(けいき)の刑の執行を知った。恵喜の上告審を担当した国選弁護人。〇七年三月の上告棄却で本来の役目は終わったが、東京から恵喜のいる名古屋拘置所へ通い続けた。

 「彼はやんちゃなワル。平気でうそを言う」。そう感じながらも、一人の人間として向き合うことをやめなかった。

 「もう死刑でいい」。恵喜はそう言い放つ一方で、執行を恐れていた。恵喜と養子縁組した母、真智子(仮名)が亡くなって半年余の〇八年十二月、湯山はそれを感じ取り、恩赦を出願した。恐れがいくらか和らいだように見えたのもつかの間、〇九年五月には恵喜から再審請求を望む手紙が届く。湯山にすれば、まだ恩赦の結果が出ていないし、再審請求となれば新証拠が必要となるため軽々には踏み切れない。面会でよくよく尋ねれば、いっときの気分で言っただけで、本心から望んでいたわけではなかった。

 一〇年九月に恩赦が不相当とされると、すぐ二度目の出願。今度は、信太郎の上申書を添えた。「いまの加納さんはそのときとは全く違う人に変えられ、新しい命を生きています」。が、それも一二年九月には退けられる。執行はその五カ月後だった。

 恵喜に「振り回されたこともある」と湯山。それでも見極めたいことがあった。面会のたび、こう訴えた。「自らの罪を真正面から受け止めなきゃだめだ」

 それは真智子が死の直前まで願ったことであり、自らの死後、湯山に託したことでもある。恵喜にとっては考えたくないことだったかもしれない。ただ、恵喜は湯山のことを「友だち」と呼び、少なくとも、その言に耳を閉ざすことはなかった。

 が、恵喜は本当に罪と向き合い、反省したのか。九年近く付き合った湯山にして、今も分からない。

 ただ、もしも…と思うことはある。例えば、信太郎の一人娘むうちゃんが恵喜の事件を理解できるまで成長し「どうして人を殺したの」と尋ねたらどうか。恵喜は罪から目をそらすことができただろうか。「もし、もっと生きていたら、もっと変わった。その可能性がある人を殺してしまった」。湯山はそう思う。 (敬称略)

 

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