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【伝言 あの日から70年】

配給削減で迫る飢餓 国民に不満 農商相が謝罪

「かゆもイモが入っていればいい方だった」と振り返る千葉県松戸市原爆被爆者の会会長の生島渉さんと当時の東京新聞紙面(コラージュ)

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 一九四五(昭和二十)年七月、敗色が濃くなる中、国民の生活は限界に近づいていた。同月三日、政府は主食の配給を一人一日あたり二合三勺(しゃく)(三百三十グラム)から一割減らし、二合一勺(約三百グラム)にすると決めた。飢餓が迫っていた。 (荘加卓嗣)

 千葉県松戸市原爆被爆者の会会長の生島渉さん(83)=同市小金原=は戦時中、長崎市に住んでいた。四二年の春ごろは自分も友人も弁当箱に白米を詰め学校に通った。それが翌四三年には粗末になり量も減った。

 「少しのコメのかゆ。道端のヨモギを湯がいて小麦粉とすりつぶしてまんじゅうにした。イモのツルや種芋も食べた」

 四五年春、長崎工業学校(現・長崎工業高校)に入学。軍の土木作業に動員された。片道二キロ歩いて現場へ行き崖をつるはしで削り、土をモッコで運んだ。イモ二個だけの昼食がうれしかった。家の食事はさらに貧しくなっていたからだ。

 配給の一割削減はこんな時期に決まった。カロリー換算すると一日あたり千〜千百キロカロリー。成人男性に必要な千五百キロカロリーを下回る。労働力不足などで食糧増産できないのに軍は本土決戦に向け備蓄を増やしていた。

 翌四日の本紙は「草根木皮の常食化」という記事を掲載。ガダルカナルで飢えながら戦った将兵を引き合いに「戦訓をいかせ」と説いた。一方、石黒忠篤農商相=当時=は談話を発表した。当時としては異例なほどの平身低頭ぶり。

 「主食の配給量は今までも決して十分ではなかった。私は主務大臣として非常に深甚の責任を痛感せざるを得ない」

◆食糧難 統制また統制 すさむ心

(左)菜園となった日比谷公園=1941年、東京都公園協会提供(中)戦時中、食糧配給に列ができた(右)“飢餓地獄”の敗戦。「オナカガペコペコデス」というプラカードを手に小学生たちも食糧メーデーに参加した(昭和21〜22年)

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 戦時中、食糧難は慢性化していた。輸入が途絶えたのに加え、軍用米の需要が増えたことが主な理由だった。政府が「ぜいたくは敵だ」と呼び掛けても、消費を減らすには限界があった。食糧不足に、人々の生活と心はすさんでいった。

 東京都港区の森連さん(82)は戦時中、兵庫県香住町(現・香美町)の祖父母の元に預けられていた。日本海に面した漁業の盛んな町でも、食生活は日々貧しくなっていった。

劣悪な食糧事情を振り返る森連さん=東京都中央区で

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 思い出すのは、米ぬかと小麦粉を混ぜて蒸した「ぬか団子」。「米ぬかが歯の間に詰まって、食べられたものではなかった」

 一九四五年一月に、兵庫県少年海兵団に入団すると、朝食と夕食は芋がゆだった。イモの堅いへたまで調理していた。ある日、同期生がへたを吐き出した。「天皇陛下から授かった食物を無駄にするのか」。怒声を上げた教官から往復びんたを四発くらった。

戦時中のひもじい思いを振り返る安藤誠一さん=東京都中央区で

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 東京都中央区の安藤誠一さん(85)は、商業学校の二年だった終戦間際の出来事を告白する。

 四五年六月から勤労動員で、神奈川県厚木市で工場設営に駆り出されていた。朝食はかゆ、麦飯の弁当、夕食がぞうすい。「弁当の麦飯は量が少なく、持って歩くと片方に寄って三分の一くらいになってしまう。かゆも消化がいいから、すぐにおなかがすく」

 たまりかねて夜中、宿舎の近くの畑に植えてあったトマトを食べた。「暗いから熟れているのかもわからなかったけど、うまかったなあ」。若いころ思いあまってしたことに、複雑な思いを持っている。

     ◇

 食糧を生産する農村も、軍に働き手の若い男性を取られ、苦しんでいた。さらに、食糧をため込まないよう役人が目を光らせていた。中には、率先して供出に協力し、自分たちの食べ物に不自由する人もいた。

生産現場の苦難を振り返る川合寛治さん=浜松市東区で

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 浜松市東区常光町の農業、川合寛治さん(81)は両親を早くに亡くし、祖父母に育てられた。食糧を増産しようと、祖父はコメばかりでなく、ムギやサツマイモやサトイモ、落花生に手を広げた。川合さんも手伝い、働き手を軍に取られた農家は、地域で手伝った。

 一反ごとに供出量が決められており、政府が買い取った。それでも役人が家まで確かめに来た。「まだありそうだと思ったのか」

 役人が疑いを持ったのは、闇市場に農産物を流す農家があったからだ。川合さんの家にも、業者が買い付けに来たことがあった。

供出の厳しさを証言する村山ひささん=茨城県土浦市で

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 茨城県土浦市の村山ひささん(87)は四四年半ば、通っていた学校から、働き手になるよう迫られた。実家の農業を手伝うことにしたのは、兄が出征し、人手が足りなかったからだった。

 かすりにもんぺ姿で、草取りやイモ掘りを手伝った。素手と素足。肥料としてまかれた牛馬のふんに閉口した。区長を務めていた父は、立場上、率先して食糧の供出に協力した。

 「農家なのに身内で食べるコメが足りなくなった。それでジャガイモやサツマイモの雑炊を食べたり、すいとんを食べたり」

     ◇

 多くの国民が苦しむ中で、中には驚くような菓子を手にした人もいた。

配給業務について話す清岡美知子さん=東京都練馬区で

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 練馬区の清岡美知子さん(91)は、東京都経済局食糧課にタイピストとして勤務していた。四三、四四年ごろ、特別配給として配られたのは、高級和菓子店のようかんだった。

 ようかんに使う砂糖は、貴重品だった。「当然、内緒。私たちもびっくりした。技術保存の名目で製造し、宮中や軍隊に納めていたようだ」。甘党の父が手にして涙ぐむほど、珍しい品物だった。

 清岡さんの職場は米穀の配給を所管していた。同僚は供出を求めて産地を駆け回っていた。それでも供出は思うように進まず、一般に配給するコメには、大豆やトウモロコシが混ざるようになった。

 肉体労働者向けの特別配給は、真っ黒なコーリャン(モロコシの一種)の餅になった。「焼いても食べられなかった」。そんな代物だった。

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 四五年三月の東京大空襲で清岡さんの実家は焼けた。同年六月、母の郷里の長野県松本市に疎開し、同市郊外に組織を移していた農商省食糧管理局統計検査課に職を得た。

 全国から米穀の収穫高などに関する報告を集めて統計資料を作る。それなのに登庁すると「女性職員が、お裁縫したり、派閥争いをしたり。駅の助役さんと、仲良くなる子がいたり」という様子だった。戦況の悪化で基礎的なデータを集められず、仕事のしようがなかったからだ。

 戦争が終わると、統制は破綻し、闇市場は一段と広がった。農村には、物々交換で食べ物を得ようとする都会の人が訪れた。

 「戦ひの後に必ず襲ふものは最も苛酷な飢餓(きが)」。政府の広報機関・情報局は、終戦直後に出した四五年八月二十九日号の「週報」でこう予告した。それは的中する。

 戦地からの復員が本格化し、食糧はさらに不足した。国民の不満は翌四六年五月の食糧メーデーでピークを迎え、敗戦の打撃が深刻な日本をさらに揺るがす事態になった。

◇食糧をみても無謀だった 小田義幸さん(39)武蔵野大学非常勤講師

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 日本国内は大正期からの人口増加で食糧消費が増え、当時、植民地だった朝鮮半島や台湾からの移入米が頼みだった。それが、三九年に大干ばつが起き、行き詰まる。

 すでに日中戦争は始まっていた。軍用米の需要や投機で米価は暴騰、軍部や内務省は配給の実施を農林省に求めた。慎重だった同省は押し切られる形で四〇年十月、農家の保有米以外すべてを政府管理米として供出を求める「米穀管理規則」を公布した。

 統制を流通から消費へ、米穀から麦類などに拡大させ、四二年二月、食管法を制定。戦時食糧管理体制は確立を見る。

 太平洋戦争の緒戦は資源とともに東南アジアから外米が入ってきた。戦局悪化で海上輸送が難しくなると、それも途絶する。

 石黒忠篤農商相は戦後、「四五年五月ごろ、海洋学専攻の東大教授から、朝鮮の港から穀物をゴム袋に入れて流すと海流に乗って数日後に島根県に漂着する可能性が高いと助言された」と書き残している。閣僚と学識者がこんな荒唐無稽な話をするほど、国内の食糧事情は切迫していた。

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 国内の輸送網も寸断された。農家では働き手を兵役に取られたり、化学肥料の質が悪くなったりした。生産効率が悪化し、農村の供出渋りもあった。空襲で焼損した分も少なくない。食糧難はこうした要因が重なり合って起きた。

 そんな状況なのに、軍部は本土決戦用の食糧備蓄を増やしていた。

 四五年七月の配給一割減は、こんな状況の中で決まった。「戦意喪失につながる」「治安が維持できない」という政府内の反対が押し切られたのは、四五年秋に凶作が予想されていたためだった。

 食糧を海外に依存しているのに、輸出入が滞るような戦争を始め、足りない分を統制でやりくりしようとするのは、どだい無理な話だった。食糧の面からも、無謀な戦争だったことがみて取れる。

 ★これまで毎月1回、特集していましたが、今後は随時、掲載します。

 

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