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【戦後の地層】

<平和と軍需と 長崎の70年>(2) 足の裏

米原子力空母エンタープライズ寄港が、1968年1月19日だったことから、基地に反対する人々は今も19日に商店街を歩く=3月19日、長崎県佐世保市で(梅津忠之撮影)

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 終戦から五年後の一九五〇年六月二十九日、長崎県佐世保市で、まさかの空襲警報が鳴り響いた。「飛行機のごう音の後、ウーという音が聞こえた。逃げる用意をし、家族七人が一室に集まった。いやな雰囲気だった」。本尊寺住職の成瀬英彰(72)は振り返る。

 明治時代に海軍の鎮守府が置かれて発展した街は四五年六月、空襲で焼き尽くされた。母親は成瀬を抱き、防空壕(ごう)に、はうように逃げ込んだ。

 悪夢がよみがえる警報は、国籍不明機が九州北部に飛来したため発せられた。四日前に朝鮮戦争が始まっていた。

 市は平和宣言を採択し、軍都から「百八十度の転換」を模索していた。旧軍港市転換法は特定の自治体だけに適用される法律のため、憲法で住民投票が必要とされた。これに97%が賛成した。しかし朝鮮戦争で米兵とともにドル札が押し寄せると空気が変わった。飲食店は、リンゴ箱などに札を足で押し込み客をさばく特需に沸いた。

 平和宣言はなし崩しとなった。米軍は基地を開設し、市は海上警備隊(後の海上自衛隊)を誘致する。憲法で戦力の不保持を掲げながら、「自衛」という名の武力保持へと方向転換した日本の姿そのものだった。

 米国の原子力空母エンタープライズや放射能漏れ事故を起こした日本の原子力船「むつ」…。被爆県の佐世保の港に「核」は次々、訪れた。

 高校生の時に抗議活動に参加した篠崎正人(68)は二十年以上、米軍基地を双眼鏡で監視している。

 九二年、「アジア重視」を理由に二隻の揚陸艦が配備された。バーで知り合った米軍の下士官は「米国内の基地が閉鎖になったから」と話し、別の米兵は一隻を「おばけがでそうな老朽艦」と言った。

 「冷戦後の基地縮小で置き場のなくなったものを押しつけられている」。米国防総省に情報公開請求したりするうちに、疑惑は確信に変わった。

 元市長の辻一三(いちぞう)(故人)の著作には原子力潜水艦入港時の有力者の発言が記されている。<佐世保は(中央から遠い)足の裏。汚れるなら顔より足の方がいい>

 数万人が反対集会に集まったエンタープライズ入港から約半世紀。基地に反対する人々は今も月一回、中心部の四ケ町商店街を「平和のために」とかかれた横断幕を掲げて無言で歩く。宮野和徳(70)は妻由美子(67)を含め、たった三人で歩いたこともある。「時にはばからしいとも思うけど、黙りたくない」

 二〇〇二年から年一回、同じ通りで地元の自衛隊が創立記念パレードをするようになった。米軍や自衛隊の協力を得てさまざまなイベントを仕掛ける四ケ町商店街は今「日本一元気」と注目を浴びる。商店街協同組合の理事長、竹本慶三(65)は胸を張る。「われわれは基地の街として自信を持っている」=文中敬称略(「戦後の地層」取材班)

 

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