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【戦後の地層】

<命と国家>(2)キノコ 「元七三一」地下壕の告白

赤山地下壕に立つ愛沢伸雄さん(右)と鈴木政和さん、手前はマッシュルーム=コラージュ

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 千葉県館山市の海上自衛隊館山航空基地近くの岩山に、戦時中、海軍が使用した巨大な「赤山地下壕(ごう)」が広がる。

 二キロほどにわたって張り巡らされたトンネルに一九六〇年代、一人の男性が住みついた。壕でキノコの種菌を作り、周辺の農家の指導もした。

 地元で戦争遺跡の保存運動をしているNPO法人「安房文化遺産フォーラム」の愛沢伸雄(63)や鈴木政和(まさかず)(69)は九〇年代、調査のために壕を訪れ「キノコのおじさん」と酒を酌み交わすようになった。

 二〇〇一年、鈴木がJR東労組の約二十人を壕に案内した際、おじさんは、皆の前で自分の過去を明らかにした。「私は七三一部隊の隊員でした」。鈴木が思わず「いいんですか」と声をかけると、「もういいんだ」と淡々と答えた。

 七三一部隊として知られる関東軍防疫給水部は、コレラなど伝染病予防がその目的とされた。日本の兵士の命を救うための部隊は、細菌兵器開発のための人体実験で中国人捕虜などの命を非道に奪う裏の顔があった。秘密を墓場まで持っていくよう指示された隊員の多くは、戦後もその活動を口にしなかった。

 おじさんが、鈴木らに七三一部隊にいたことを話したのも知り合って何年もたってから。支部で上下水の防疫や検便をしていて、細菌兵器とは無関係だったことや、その後希望して南方の島に転じ、食料確保に当たっていたことなどを断片的に明かしていた。

     ◇

 足跡をたどろうと、記者はおじさんの故郷茨城県神栖市を訪ねた。何軒も回って、七、八〇年代に一緒にキノコ栽培をした沼田武雄(89)にたどり着いた。

 沼田によると、おじさんは戦後、でんぷん工場を経営。一九五一年に三十七歳で旧軽野村(現神栖市)の村議にもなったが、キノコ栽培の適地を探し、任期途中で村を出てしまったという。その後、種菌を分けてもらうようになり「親分」と慕った沼田だが、やはり戦時中のことを聞いた記憶はなかった。

 赤山地下壕にたどり着くと、まずマッシュルームの栽培を始めたようだ。食品会社「キユーピー」の関連会社に、おじさんから仕入れたマッシュルームを加工していた記録が残っていた。

 おじさんは二〇〇二年に壕を去り、数カ月後に病死した。二十代を過ごした戦争で何を感じたかは知るすべがない。「マッシュルームを輸出すれば外貨獲得手段になると思った」「自分ができることで戦後の日本に貢献したかった」という、愛沢らに語った言葉がかすかな手がかりとして残っているだけだ。

 赤山地下壕は〇五年一月に市史跡に指定された。「おじさんが住んでいたことで、壕はいい状態に保たれた」(愛沢)。戦争を語らぬ存在が、戦争の記憶を館山にとどめた。 (文中敬称略、飯田孝幸)

 

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