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【名建築を訪ねる】

数々の難を逃れた一畳敷 泰山荘(東京都三鷹市)

2008年5月28日

絵・加藤良造

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 広大な国際基督教大学(ICU)のキャンパスの小道を進むと、周囲はいつの間にか、軽井沢のような別荘地の趣に。かやぶきの表門に「泰山荘」の文字。案内してくれたICU湯浅八郎記念館学芸員の原礼子さん(54)は「門の屋根も三年前に修復したばかりなんです」と維持の労苦を説明した。

 泰山荘は一九三九(昭和十四)年、当時日産財閥の重役だった山田敬亮氏が別荘として完成させた。現存するのは六棟。最も知られる中心的な存在がかやぶきの建築物「高風居」の中にある「一畳敷」と呼ばれる書斎だ。さかのぼれば、その沿革はロマンにあふれている。

 「北海道」を名付けた探検家として知られる松浦武四郎氏が生前、全国の著名な神社仏閣から寄贈を受けた柱、壁板などを使って一八八六(明治十九)年に造り上げた。当初は千代田区内の自宅にあった。松浦氏は一畳敷を構成する約九十の柱などの寄贈元の神社を「木片勧進」として記録に残し、八八年他界。「一畳敷を解体してだびに付してほしいとの遺言にかかわらず、遺族はその価値の高さから保存を決めたんです」と原さん。

 日本初の私設図書館「南葵(なんき)文庫」を創設した紀州徳川家当主、徳川頼倫(よりみち)氏が一畳敷の存在を知り、港区の麻布に移築。一九二三(大正十二)年の関東大震災の被災を免れ、二四年には徳川家の移転に伴い、代々木上原へ。そして前出の山田氏の泰山荘建設に伴い、現在の三鷹市へ。

 四〇年には山田氏から富士重工の前身で、戦時中、名戦闘機を送り出した中島飛行機会社の中島知久平氏に敷地を譲り、泰山荘は中島氏へ。こうした変遷の結果、大震災、東京大空襲による焼失を免れる。

 中島氏は戦中、そして戦犯に問われた戦後も泰山荘の書院に蟄居(ちっきょ)し、世を去ったという。

 一畳敷だけではない。門近くの車庫は昭和の初め、都心から車でやってくる客のために造られた。国の文化財登録(九九年)の調査で訪れた文化庁職員も「非常に珍しい」と驚いたという。高風居の敷居の一部は戦艦「三笠」のチーク材だった。泰山荘を離れ、「もし一畳敷が火葬に使われていたら…」。見識あふれた先人たちに感謝した。 (三橋正明)

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保存のため学生も一役

 泰山荘の価値に気付き、歴史をまとめたのは1985−87年、米カリフォルニア大東京スタディーセンター長を務め、ICUでも教えたヘンリー・スミス氏(現コロンビア大教授、日本近代史)だった。だが、学生も保存のために動いている。

 2000年、有志が「泰山荘プロジェクト」を始動。毎年11月初めの「ICU祭」で公開される「一畳敷」などの定期的清掃を続けている。教養学部3年の伊藤敬子さんは「入学するまで知らなかった」。同鴨川佳奈さんは「過去の人が触れたところをぞうきんがけしていいのだろうか、とも思ったりもします」。茶道部も使用する茶室。学生の保存活動がその価値を語り継ぐ。

 JR中央線武蔵境駅南口から小田急バス「国際基督教大学」行きで終点まで約10分。東京都三鷹市大沢3の10の2。泰山荘公開は原則11月の「ICU祭」で。問い合わせはICU広報センター=(電)0422(33)3038=へ。

 

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