ブラック校則「学校のおきては」変えられるか

2021年5月11日 06時53分
 児童・生徒が守るべき学校のおきて「校則」。昔からその存在意義について議論が行われてきたが、最近でも理不尽と思われる「ブラック校則」の存在が注目されている。二十一世紀の今、校則をどう考えたらいいのか。

<ブラック校則> 社会通念に照らして理不尽と思われる校則。2017年に大阪府立高校の女子生徒が、地毛を黒く染めるよう強要され不登校になったとして、府に損害賠償を求めて提訴したことで注目された。
 これを機に、会員制交流サイト(SNS)の投稿などで「登山での水飲み禁止」「体操服の下は肌着禁止」といった校則の存在が明らかになった。学校が集団生活の場である以上、一定の規則は必要であるとしても、その存在意義を真剣に考えるときが来ているようだ。

◆「何のため」答え聞けず お笑い芸人・佐田正樹さん

 校則ですか? あまり興味ないけど、ルールと無縁に生きてきたところがある人間としては、ルールがあるから、良くも悪くもそれに従わず、皆と同じ道を行かない、個性のある人が出てくるのかなとは思います。
 僕自身の経験で言うと、中学時代に「違反学生服だと授業を受けさせない」と言われて、登校してすぐ帰ったりしていました。なぜ人と違う服装するだけで頭ごなしに非難されるのかと思い、ルールは本当に守らなきゃいけないのかって考えるようになった。
 結局、何のために服装などのルールを守るかということです。高校時代はブレザーにネクタイが決まりでしたが、ネクタイしないでいた。それで頭良くなるなら、しますよ。でも、先生に「どうして?」と聞いても、「それが校則だから」「おまえ、生意気だ」で終わり。
 子どもって「何で? 何で?」と聞く生き物じゃないですか。それを自分の話術で理解させられない先生って何なのか。理由を述べることができない人間が先生になるんだと思いましたもんね。もしその時、ちゃんと答える人に出会えていたら、もっと違う道に行けたのかなと思います。
 自分に子どもがいたら、「おまえの好きな格好で行ったらええやん」と言いますかね。「それで周りから変な目で見られても、『俺は格好ええやろ』と言えるんであれば」あるいは「先生から何度注意されようと、絶対変えたくないと思うのであれば」と。その覚悟がないなら、やめとけということです。
 今は、法律も含めてルールを守っていますよ。ルールとして決まっているからではなくて、それが人に迷惑をかけないことだから。今はルールを守らなかった人がいると、それで迷惑を受けていない人間までその人を責める風潮だけど、理解できない。関係ないじゃんと思う。
 僕のルールは、ルールは自分で決めるということ。人の意見で動かされないし、自分の意見も人に押し付けない。人は誰かに寄り添わないと生きていけなくて、ルールも誰かに決めてもらおうとする。極端な話では「神様」に託すところまで行ってしまう。でも、良いことも悪いことも自分がしたことなんですよ。自分の魂に責任を持て。僕はそう思って生きています。(聞き手・日栄(ひえい)瑞希=南山大四年)

<さた・まさき> 1978年、福岡県生まれ。元暴走族総長。97年にお笑いコンビ「バッドボーイズ」結成。ユーチューブのチャンネル「SATAbuilder’s」は登録者数50万人突破。

◆「乱れ」は「多様化」では 名古屋大准教授・内田良さん

 校則を理由に髪の色を黒く染めるよう強制され不登校になった大阪府の元女子高生による二〇一七年の民事訴訟がきっかけで、評論家の荻上チキさんらが実施した校則調査に参加しました。荒れた生徒を校則で抑えつけていた一九八〇〜九〇年代ほど、厳しくないだろうと予想していたのですが、実際は理不尽な校則が多数ありました。
 子どもたちの個性の発露と呼ぶべき髪形や服装を「華美な身なり」という、もはや学校でしか聞かない言葉で規制しようとしている。ルールを厳しくして、違反者を生み出し、注意指導する。これを繰り返すことで、教師は、頭のてっぺんから爪先まで生徒を自分の手のひらに載せることができるようになります。しかし、はたから見ると、教師が恐れる「秩序の乱れ」とは単なる「多様化」ではないかと思えてなりません。
 岐阜の複数の高校がコロナ禍で、衛生面に配慮し私服での通学を認めました。制服といえば校則の本丸ですが、私服で通うことで何ら問題は起きていません。マスク不足などで、子どもが白以外の多様な色のマスクをつけ通学したケースもありましたが、当然何の問題も生じませんでした。もうこのまま、多様な身なりで通していけばよいでしょう。コロナ禍における学校の変化を一過性のものとするのではなく、そこから学んでいくことが大切です。
 ただし、現場の教師たちが悪意に満ちているかといえば、決してそうではなく「校則は子どもたちの成長に役立っている」と本気で考えていると思われます。昨年、東京都議会でツーブロックの髪形を禁止する校則が取り上げられた際、教育長が「子どもを守るため」と答弁しましたが、詭弁(きべん)ではなく、本気でそう考えているのでしょう。先生たちは「子どものため」だと思っているからこそ、校則は変わりにくいともいえます。
 元女子高生が大阪府を訴えた訴訟での「校則に違法性はない」という判決には胸が苦しくなりました。この生徒はだれも傷つけていません。ただ、先生が生徒を傷つけているだけです。校則の見直しは、校則の被害者である生徒に任せるだけでは不十分です。生徒会が頑張るその前に、まずは職員室で話し合うことです。先生方には、学校から世の中を変えていくという気概を持っていただけるとありがたいです。(聞き手・中山敬三)

<うちだ・りょう> 1976年、福井県生まれ。専門は教育社会学。「学校リスク」を重点的に研究。著書に『ブラック部活動』(東洋館出版社)、『学校ハラスメント』(朝日新書)など。

◆自由がストレスにも 弁護士、高校教師・神内聡さん

 校則を巡る法的議論は一般的に、子どもの人権と学校の施設管理権の対立構造で考えられていますが、私は教育目的の達成と教師の法的責任を果たすために必要かつ合理的な校則であれば認められると考えています。
 そもそも犯罪行為につながるような校則は違法です。また、犯罪に該当しなくても不合理であれば見直す必要があります。
 ただ、校則を議論するときには、学校と家庭の役割分担や、教師の法的責任の限定についても同時に議論する必要があります。校則が厳しくなった背景には、家庭ですべき指導を学校がしなければならなくなったこと、教師の法的責任が拡大したことの二点があるからです。
 現状では安全配慮義務や予見可能性などをはじめとする教師の法的責任の範囲が広すぎます。もし校則を緩くして何か問題が起きた場合に教師が多大な責任を負うのであれば、学校としては何も起きないように校則を厳しくしようという意識が働いてしまいます。
 法律家が校則を議論すると、結局、違法か適法かの二元論になります。しかし、教育は違います。子どもの個性や状況によって多様な結論があり得ます。ある学校や子どもにはうまくいったやり方だとしても、他の学校や子どもにもうまくいくとは限りません。いろいろな学校や子どもが存在するからです。
 個人の自由が尊重される社会でなければならないのは当然です。ただ、自由には責任も伴います。大人の世界でも同じですが、自由がかえって子どもにとってストレスになる可能性も否定できません。
 私は弁護士として、子どもの人権を何よりも保障すべきだと理解しています。一方、教育の現場も経験しているので、理想論だけでは難しいことも知っています。実際に担任をしてみると、ルールを緩めれば子どもたちの利益につながると単純には言い切れないこともあります。
 教師が不合理な校則を生徒に押し付けているような見方もされますが、多くの教師は子どもたちにとって校則が必要なのか、悩み、葛藤しています。校則を批判する弁護士も多いのですが、弁護士業界にも理不尽なルールはたくさんあります。
 誰もが経験している教育だからこそ、個人的な経験に基づく判断から離れた科学的な考察が大切だと思います。(聞き手・越智俊至)

<じんない・あきら> 1978年、香川県生まれ。兵庫教育大准教授。弁護士として各地の学校でスクールロイヤーを務める一方、高校で社会科教師として勤務する。著書に『学校弁護士』など。

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