<よみがえる明治のドレス・8>日本初の銀婚式 彩る中礼服 西洋流「夫婦」像と伝統美

2021年5月13日 07時13分

「明治天皇紀附図『大婚二十五年祝典』」(宮内庁蔵)

 1894(明治27)年、明治天皇と美子(はるこ)皇后(昭憲皇太后)の結婚25年を祝う式典を彩った皇后の中礼服(ローブ・デコルテ)。皇室の所蔵品で、当時の国産技術を結集してつくられた最高級品の一つだ。近代的な「夫婦」像形成の出発点となった式典を通じて浮かび上がってきたのは、西洋化を受け入れながら、日本の伝統文化や国内産業を守ろうとした皇后の姿だった。

皇后が着用した中礼服「ローブ・デコルテ」(宮内庁蔵)

 「明治宮殿の落成、憲法発布式、大婚二十五年式典と続く明治二十年代の式典で最も大きい行事が大婚二十五年式典だった。西洋風の銀婚式を取り入れて国家的規模で皇室の御慶事をお祝いした最初のもので、その後のお祝い事のスタイルが形づくられた」
 宮内庁三の丸尚蔵館首席研究官の太田彩さんは、一八九四年三月九日に挙行された「大婚二十五年式典」の意義を、こう強調する。
 式典には、総銀地のびょうぶや百の寿字が表された銀製の花瓶、引き出物の銀製菓子器(ボンボニエール)など、初の銀婚式にちなむ品々が数多く登場。最も注目されたのは、この日の主役、皇后が着用した中礼服で、菊花を中心とした伝統的な日本の文様を表現した日本製のドレスだった。

祝宴の参列者に下賜された鶴亀立像形のボンボニエール(個人蔵)

 ボディスとスカートの前面は、銀糸やスパンコールを用いた立体感のある刺しゅうで、菊やオミナエシなどの秋草と籬(まがき)を表し、袖、脇から背面にかけては、銀糸による小葵(あおい)に菊模様の織物が用いられた。
 『高島屋百年史』によると、皇后の中礼服を受注したのは、呉服商四代飯田新七(高島屋二代社長)。実際には京都西陣の織元で当時、日本製のジャカード機で洋服地を織る第一人者だった、佐々木清七が二年ほどかけて調製したという記録もある。
 中世日本研究所(京都市)代表のモニカ・ベーテさんは「ドレスの後ろ半分は、佐々木清七が平銀糸を使って織ったのであろう。小葵や菊の文様もジャカード機を使って、とても規則正しく美しく織られている」と指摘。刺しゅうについて「秋草と籬の文様は日本の伝統的なデザインで、とても上品。服地も含めて国産であろう」と話す。

各省庁に配布されたローブ・デコルテの略図(宮内庁公文書館所蔵資料)

 皇后は八七年に発した洋装奨励の「思召書」の中で、なるべく国産服地を用いるように提言していたが、この式典で中礼服を着用したのは皇后や女性皇族、女官ばかりではなかった。
 明治政府は準備の一環として、式典に参列する中央省庁高官の妻のために中礼服の略図百七十一人分を作製、各省ごとに配布。女性はこの日の祝宴に八十七人、舞楽に百三十六人が陪席。参列女性の中礼服の多くも国産でまかなったとみられる。
 「天皇、皇后の御手を携へて出御あらせらる」。『明治天皇紀』は、当日の祝宴や舞楽鑑賞のため宮殿正殿に入場する天皇、皇后の様子を伝えた。八九年の憲法発布式では玉座に上がらなかった皇后も、この席では天皇と並んで玉座に座った。米国の新聞も「旧慣を改め、男女同等の風に近づかしめんとの叡慮(えいりょ)を表せらるる」(『昭憲皇太后実録』)と論評した。
 「銀婚式は日本にはなかった習慣だが、西欧と同じ『夫婦』像が日本にも根付いたことを西欧諸国にアピールする狙いがあった」
 学習院大史料館学芸員の長佐古美奈子さんは、銀婚式の目的を指摘し、皇后の役割について「日本の伝統技法で織られたドレスを着用し、西洋の習慣『ボンボニエール』を明治維新で職を失った刀剣飾職人たちに作らせ、日本の風習である引き出物とした。ここに西洋化を受け入れながら、日本の伝統文化と国内産業を守ろうとした姿を見ることができる」と評価する。
 文・吉原康和
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