子供たちの履物文化 偉大な発明「下駄スケート」

2019年11月3日 02時00分

神社境内の石段で、紙芝居を楽しむ子供たち。ほとんどが下駄をはいており、中には裸足の子も=1955年ごろ、千葉市稲毛区(撮影・木本幸正氏、「千葉市の昭和」より)

 晴れた冬の日によく遊んだのは手製の「スケート下駄(げた)」で滑ることだった。
 その頃の子供たちは裸足(はだし)のまま下駄をはいているのが普通で、晴れているときなどはともかく、曇天や雨でもごく普通に裸足の下駄ばきで遊んでいた。よく冷たくなかったものだと思いだして我ながら感心するのだが、もともと子供らは寒さに強く、砂利道などの上も裸足で平気で歩いていた。
 ぼくが東京から千葉に越したのは五歳ぐらいの時だったけれど、何月頃だったかは正確には覚えていない。ただし道をいく子供らは裸足が多く、それに驚き、同時に謎だったことをよく覚えている。靴や下駄は「よそいき」の履物で、子供はふだんは裸足でいい、という考えだったような気がする。
 大人になって世界のあちこちを旅するようになり、辺境地などでは子供も大人も裸足で歩いているのをよく目にしたが、その時代の千葉の漁師町はニューギニアやラオスなどと同じような生活感覚だったのだろうなあ、と改めて自分の子供時代を思いだし、その逞(たくま)しさをなつかしく思ったものだ。
 県道が舗装される頃、子供たちはいわゆる「ハレ=めでたい日」ではなくても下駄やズックを履くようになった。
 下駄は固い松材のものが多く、その後はいた桐(きり)の下駄などと比べるとまるで別の履物のようだった。それでも重い松の木の下駄をはくと砂利道なんぞなんのその、という豪快な気持ちになった。戦後経済が急速に復興していく時代で、同じ頃に「足袋」を履けるようになった。黒い木綿製で、子供たちの足もとは急速に「豊か」になった。
 県道が舗装され、下駄文化がやってきたことによって、子供たちに「下駄スケート」がにわかにはやりはじめた。
 履きならして下駄の裏もほとんど平らになったようなものに「戸グルマ」を打ちつけるのだ。はじめのうちは片方に四つそれを打ちつけた。でもそれを履いて滑ろうとしてもなかなか動かない。坂になったところでやっといくらか滑ったが体が前かがみになるとあっけなく人間だけが前に転げおちた。
 そこで戸グルマをつけた下駄は片一方だけ履いて、もういっぽうの足で道路を蹴るとキュルキュルいって五十センチぐらいは滑る。それだけでもたいそうな成果だったけれど、どんなものにも「工夫、発明」は急速にすすむもので、戸グルマを下駄の真ん中の前と後ろにひとつずつ打ちつけるだけにして両足に履いてみるとバランスをとるのが難しく、すぐに倒れてしまったが、坂道などで何度も練習するとやがて両足を交互に動かしていく、などというコツを掴(つか)んで三~五メートルぐらい滑ることができた。
 でもこういう「進歩」をものにするとたいてい学校の先生などに知られるところになり「危ない!」「とんでもないこと!」など言われて偉大な発明の進歩の道が閉ざされていったのだった。 (作家)

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