思い出の焼き芋 寒い夜のシアワセな一家

2019年12月1日 02時00分

冬のおやつの定番、ホクホクの焼き芋

 幕張駅をでると国鉄(当時)と京成電車の線路が一緒になっているので、たえず電車が行き来しており、地元の人は「あかずの踏み切り」と言ってほぼあきらめ顔だった。
 この踏み切りのすぐそばに、ぼくたちが「青木昆陽神社」と呼んでいる一角があった。神社の近くには蘭学者、青木昆陽がサツマイモを最初に試作したところがある、ということはだいぶ後になって知った。
 サツマイモが天明、天保の大飢饉(ききん)を救った、ということも学校でおしえられたのだろうけれどちゃんとわかってはいなかった。
 ただし町のいたるところにサツマイモ畑があって、収穫期になるとおやつはサツマイモばかりなので、たいていの子供らはサツマイモと聞くとうんざりした顔をしていた。戦時中から戦後、カボチャばかり食っていた地方の人にカボチャ嫌いが多い、というのと似ている。
 でもぼくの家はサツマイモ畑のほとんどない世田谷から越してきた、ということもあったのだろうけれど、家族の者もぼくもサツマイモが好きだった。とりわけ晩秋から冬に「壺焼(つぼや)き」をはじめる店がいくつかあって、母や姉などはその壺焼き芋が大好物で、ぼくはよくそれを買いにいかされた。
 サツマイモは壺で焼くもので、後年「石焼き芋」屋さんがクルマで回ってくるようになってきたのはずいぶん違和感があった。
 壺焼きは高さ一メートルぐらいある大きな壺の中に炭(コークスだったろうか)が真っ赤になって燃えており、その上のフチにぐるりと太いハリガネに刺されたサツマイモが並べられ、じっくり焼かれていた。
 寒い夜などにこれを買いにいくとき、出掛けに母や姉からわたされた古タオルにくるんで家まで急ぎ足で帰った。お腹(なか)に抱いているとものすごく温かい(熱いぐらい)のがうれしかった。
 買ってきたそれを家族みんなで「ホクホクだねえ」などといいながら笑い顔で食べたのが鮮明かつシアワセな記憶になっている。
 あれを買いに行ったのはたいてい夜だったから夕食後だったのだろうけれど、今思えば夕食後によく焼き芋をうまいうまいと食ったものだ、と感心する。戦後まもない時期だから国民みんな常に腹をすかせていたからなのかもしれない。
 その頃、深川に住んでいて江戸っ子下町弁の「さいですか」というのが口癖の叔母がやってきて、「もんじゃ焼きよりおいしいねえ」と言っているのを聞いて誇らしく思ったものだ。
 叔母はわが家に来る前に地元の中学生の集団と電車で一緒になり、男子生徒の帽子の記章が「芋」の葉をかたどっていた話をしてそれにも妙に感心していた。でもそれは周辺地区の人から「イモ中」と呼ばれるモトになっているので、ぼくは地元の中学に行きたくなかったのだけれど、叔母のそのひとことで少し考え直したのだった。 (作家)

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