<社説>沖縄復帰から49年 米軍基地の跡地に花を

2021年5月16日 06時47分
 沖縄の施政権が米国から日本に返還されて、十五日で四十九年がたちました。この間、米軍基地の返還は本土では進みましたが、沖縄県では遅々として進まず、県内にある在日米軍施設の割合はむしろ増えているのが現状です。
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 茨城県ひたちなか市の国営ひたち海浜公園にある小高い「みはらしの丘」は、この春もネモフィラの青い花で埋め尽くされました。
 花が終わるとコキア(ホウキグサ)に植え替えられ、夏には緑色の、秋には紅葉した赤い束が訪れる人々の目を楽しませています。

◆射爆訓練場から公園に

 太平洋を望み、今では花木にあふれるこの丘一帯は、以前「水戸対地射爆撃場(射爆場)」と呼ばれる米軍の訓練施設でした。
 もともと、太平洋戦争末期に特攻機も飛び立った旧日本陸軍の飛行場でしたが、終戦後に米軍に接収され、戦闘機が地上の標的を狙って射撃や爆撃の訓練などを行う場所として使われていました。
 周辺住民は騒音に加え、爆弾の誤投下や機関銃の誤射など基地が存在するがゆえの被害に苦しみます。茨城県が製作した記録映画によると、事故は周辺地域を含めて二百五十七件、民間人の犠牲は五人に上りました。
 基地の被害に耐えていた住民を覚醒させたのは、一九五七(昭和三十二)年八月に起きた悲惨な事故でした。射爆場の近くを自転車で走っていた母子を、超低空で飛んできた米軍のプロペラ機が車輪ではね、体を切断された母親が即死、息子が重傷を負いました。操縦していたジョン・L・ゴードン中尉の名前から「ゴードン事件」と呼ばれます。
 操縦ミスによる業務上過失致死傷で送検されましたが、公務中の事故とされ、当時の日米行政協定により不起訴処分となりました。

◆増える沖縄の基地負担

 しかし、住民の間には「故意だった」との怒りが広がり、やがて射爆場の返還運動に発展します。その動きは県内に広がり、県民大会も開かれました。
 七〇年に米軍の訓練が終わり、七三年には日本側に返還されました。これも県民の反対運動の高まりに押されたためです。跡地は地元の強い思いにより公園へと生まれ変わりました。花いっぱいの公園は、平和の象徴なのです。
 終戦直後、本土と沖縄との在日米軍基地の面積比率は九対一。本土の方が圧倒的に多かったのですが、五五年、東京都砂川町(現立川市)で起きた米軍立川基地拡張に反対する砂川闘争など反米反基地闘争の高まりを受け、本土に駐留していた海兵隊は当時米軍統治下の沖縄に移駐します。
 日米安全保障条約が改定される六〇年ごろまでに、本土の米軍基地は四分の一に減り、逆に沖縄では約二倍に増えた、といいます。
 七二年の沖縄復帰のころには、その比率は二対三となり、今では三対七と、本土から米軍基地を押し付けられた形の沖縄の基地負担比率は増していきました。
 六九年の日米共同声明と七一年の沖縄返還協定には「核抜き本土並み」という原則が示されます。
 日本政府は「核抜き」について沖縄に核兵器が存在しないこと、「本土並み」を、本土に駐留する米軍同様、沖縄に残る米軍を日米安保条約の枠内にとどめることを意味するとしてきました。
 ただ、当時の佐藤栄作首相は国会演説で、本土並みについて返還後の速やかな米軍施設、区域の整理縮小と関連づけて説明もしています。
 本土並みには米軍基地の整理縮小という含意があり、それが沖縄の人々の願いでもあったことは確かです。
 にもかかわらず、本土と比べてむしろ増える基地負担に、沖縄の人々が不満を抱くのは当然です。矛先は政府だけでなく、本土に住む私たちにも向けられています。
 米軍普天間飛行場(宜野湾市)の返還に当たり、沖縄県知事だった仲井真弘多氏は、移設先を「北海道から鹿児島までヤマトで探してもらいたい」と訴えました。
 政府が進める名護市辺野古への県内移設では、沖縄の人々の基地負担を抜本的に減らすことはできないからです。
 仲井真氏はその後、県内移設容認に転じましたが、沖縄の切なる思いを、本土の私たち自身が誠実に受け止める必要があります。

◆ネモフィラが示す希望

 冒頭に紹介したひたち海浜公園の話に戻りましょう。新型コロナウイルスの感染拡大で一時的な休園もありましたが、コロナ禍前には年間およそ二百万人が訪れる人気の観光地となりました。
 沖縄の米軍基地も花があふれる公園にできないでしょうか。沖縄の人々と本土の私たちの力を結集して政府を動かせば、返還が実現し、憩いの場に変えることができる。そんな可能性や希望を、ネモフィラの青い花は示しています。

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