“東”武、“西”武、“南”武線 実は“北”武鉄道も! 100年前1年だけ…

2021年5月21日 07時04分

行田市の畑を縫って走る秩父鉄道。かつては北武鉄道の路線だった

 「武蔵国(むさしのくに)」を縦横無尽。私鉄の雄、東武鉄道と西武鉄道の名称は、ともに関東の広大な一帯を指す旧国名を由来とする。立川から川崎へと南下するJR南武線もある。実は「北武鉄道」だって存在した。ちょうど100年前、1年間だけ埼玉県の北部を走っていた。
 「北埼玉地域の商工業の発展を目指して計画されたが、期待には地域間で温度差があった。利害にも振り回された」。北武鉄道を研究する明治大商学部の恩田睦(むつみ)専任准教授が解説する。
 北武鉄道は、一九二一年四月に開業した。東武線羽生(はにゅう)駅があった埼玉県羽生町(現羽生市)と、足袋の生産地として名をはせていた忍(おし)町(現行田市)の八・三キロを結んだ。忍町には行田駅ができた。
 鉄道建設の旗を振ったのは羽生町の綿糸商や地主だった。一〇年、十五人の発起人が集まり政府に鉄道の敷設免許状を出願し、翌一一年に会社が正式に発足した。

東武

 行田駅から六・六キロ西の高崎線熊谷駅まで延伸させる計画が初めからあった。県北部の羽生−忍−熊谷を東西につなぐ横断路線で商取引の活発化を期待した。
 だが、これに忍町の人たちは冷ややかだった。足袋は荷馬車が走る「馬車鉄道」で高崎線の別の駅に運んでいた。以前から地域では何度も鉄道計画が浮かんでは消えていた。北武鉄道設立の発起人リストに忍町の住民の名前はなかった。

西武

 着工寸前になり、羽生、熊谷で既存路線と接続するためにレールの規格変更が必要なことが判明、巨額の追加資金を集めねばならなくなったときは、北武鉄道幹部らが忍町からも出資を募った。当初はよい反応を得られなかったが、忍町出身の経済界の有力者に交渉を託し、町の人に資金の半分を出してもらった。
 資金はまだ、足りない。救いの手を差し伸べたのが熊谷から西の路線を持つ秩父鉄道。秩父鉄道の出資を得て北武鉄道は羽生−行田駅間の線路工事に着手することができた。十年後、ついに営業運転にこぎつけた。

南武線

 だが、最大の目標だった熊谷までの延伸は工事途中で資金不足に陥る。北武鉄道は、秩父鉄道と合併する道を選ぶことになる。二二年八月、熊谷までの計画全区間の開業は、秩父鉄道として迎えた。
 武蔵に「北」を冠した名称は一年間で消えたが、路線の存在は、大きな恩恵をもたらした。機械化の進展で生産量の増えていた忍町の足袋を輸送するのに役立ち、地場産業の発展を下支えした。秩父や両毛地方とのつながりも深まり、新たな地域経済圏が形成されていくようになる。
 恩田専任准教授は「地域の主張のぶつかり合いで失敗しかかった鉄道が、住民の思いでよみがえった」。場所だけではない。バラバラになった人の心もつなげたのが幻の北武鉄道だった。

◆秩父鉄道も昔は「上“武”鉄道」

 北武鉄道の窮地を救い、今もその路線を走り続ける秩父鉄道も昔、「武蔵国」に由来する社名だった。「上武鉄道」といった。
 1899年、埼玉県大宮町(現在の秩父市)などの有志らが会社を設立。1901年に熊谷−寄居間(18.9キロ)で開業。16年、大宮町が秩父町に町名変更したことで、社名も秩父鉄道に変更した。
 自然豊かな長瀞、秩父へつながる秩父鉄道は昨年から、小江戸・川越を走る東武鉄道とコラボ。この有名観光地3カ所を結ぶ路線が乗り降り自由な一日乗車券を販売している。武蔵の鉄道は協力し合い、沿線の魅力を発信している。
 文・西川正志/写真・笠原和則、淡路久喜
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