桜木紫乃さん、初の絵本 年老いて認知症になるのは不幸せ?

2021年5月24日 07時14分
 直木賞作家の桜木紫乃さん(56)=写真、原田直樹撮影=が、初めての絵本を出版した。タイトルは『いつか あなたを わすれても』(集英社、1870円)。年老いて認知症になることは本人にとって不幸せなのか。家族にとって悲しく寂しいことなのか。そんな疑問を考え抜いて、認知症の母とその家族を巡る物語を編んだ。小説のハードボイルドな作風はそのままに、イラストレーターのオザワミカさんの繊細な絵と共振するような作品が完成した。 (出田阿生)

桜木紫乃さん

 「八十一歳の母が認知症になって、五年前についに私の名前を忘れた。とうとうきたか、と思いつつ、実はあまり悲しくなかったんです」。桜木さんは、そう自身の体験を振り返る。
 桜木さんの母は認知症の今が「一番幸せそう」なのだという。「母の人生は恵まれているとはいえなかった。父が家庭向きじゃない人だったし、嫁 姑 (しゅうとめ)関係でも苦労したし。私が結婚で家を出たら、グチの相手がいなくなって体調を崩してしまったほど」。それが今は、「毎日パパが家に帰ってくる」と無邪気に喜んでいる。「母は誰かを悪く言うこともなくなり、負の感情から解放された。本当に良かったなって思うんです」
 絵本も、「さとちゃん」と呼ばれる高齢女性が認知症になり、娘の名前を忘れる設定だ。物語は、孫娘の視点から語られる。名前を忘れられても「悲しくないし、悲しくなかったことに驚いている」と母が話すのを聞いて、「なぜ」と驚く孫娘。物語が進むにつれ、その理由が明かされる。
 「さとちゃんがみんなのことをわすれる日は わたしたちとのおわかれを こわがらずに かなしまずに すむ日」
 桜木さんの母のように、さとちゃんは忘れることで、人生の荷物をひとつずつ下ろす。それはお別れの準備なのだと−。
 桜木さんは「最初に娘の視点で書いたら、自分と近すぎて濃すぎるスープみたいな文章に。孫娘の視点に変えたら、ちょうどいい距離感になった」と笑う。小説と違う執筆作業は、新人時代のように編集者からダメ出しの連続だった。「いかにそぎ落とすかに苦心した。五十代半ばにして新しい挑戦ができてよかった」
 そして桜木さん自身、母親に忘れられたという「子としての戸惑い」はあった。執筆しながら「その戸惑いをどこに落ち着けるか」を考えたという。桜木さんは、母娘が紡いできた歴史を一枚の絵にたとえる。「母とその長女である私は、半世紀かけて一緒に絵を描いてきた。母が認知症になって絵が完成に近づき、余白がはっきりした。母が完全に私を忘れたら、たとえ母が生きていても絵は完成なの」と話す。そして同じたとえは、桜木さんと娘にも通じる。「今、私と娘が描いている絵はどんな感じかなあ、と想像します」
 桜木さんがこの絵本を通じて自分の母に贈りたかったのは、「私を忘れていいよ。忘れた方が寂しくないから、怖くないから」という思いだという。
 絵本で、さとちゃんの娘は、自分の将来についてわが子にこう語りかける。
 「もしも いつかあなたを わすれる日がきても わすれてしまうあれもこれも みんな なかったことでは ないのだから あんしんしてね」「これは たいせつな たいせつな わたしたちのじゅんばん」

◆もう1冊読むなら

 「墓じまいがあるなら、家族じまいがあってもいいんじゃないか」。そんな着想で桜木紫乃さんが書いた小説が、認知症になった母とその家族を描いた連作短編集『家族じまい』(集英社、1760円)。今回の絵本は、そのアナザーストーリーのような位置付けとなっている。

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