冒険心を翼に 90年前、法大生は飛び立った 羽田発!3カ月かけローマへ

2021年5月28日 07時05分

離陸直前の「青年日本号」=1931年5月29日撮影、郵政博物館提供

 一九三一(昭和六)年五月二十九日、一機の飛行機が東京飛行場(現在の羽田空港)からヨーロッパに飛んだ。シベリアを横断、一万三千六百七十一キロを飛び、三カ月がかりでローマに到着した。明日で出発から満九十年。文字どおり世界に雄飛した偉業からは当時の若者の冒険心が伝わる。
 法政大航空研究会長の内田百閒(ひゃっけん)教授が右手の白旗を下ろすと、石川島R三型練習機「青年日本号」が離陸した。前席に経済学部二年の栗村盛孝、後席に付き添い教官の熊川良太郎(朝日新聞社)。両飛行士はともに二十歳代。この日は百閒の四十二歳の誕生日だった。
 東京飛行場は同年八月に開港予定だったが、逓信(ていしん)省が特別に使用を許可。一万人超の群衆が集まり、上空には陸海軍や新聞社などの見送りの飛行機約三十機が乱舞。その模様は五年後のベルリン五輪で「前畑頑張れ!」の実況で知られることとなる河西三省(かさいさんせい)アナウンサーが全国に放送した。
 二九年、法政大に全国の大学で初めて航空研究会が誕生。同大によると、百閒は「話のはずみに乗って」会長を引き受け、そのうち「すっかり飛行機に夢中になった」という。飛行機の調達や援助の依頼に奔走した。
 栗村飛行士は六八年に著した手記「羅馬(ローマ)飛行」で三カ月間の体験をつづっている。それによると−。

青年日本号が飛んだ東京からローマまでの経路図(HOSEIミュージアム提供)

 地図と羅針盤頼りの有視界飛行。朝鮮半島、旧満州(現在の中国東北部)を越えてシベリアに。同機の航続距離は千二百キロなので、何度も離着陸を繰り返した。エンジンの故障でモスクワの手前約二百五十キロのゴロホベツに不時着し、モスクワまで機体を解体して貨車で輸送するトラブルも。
 それでも「飛行機は一秒一秒ローマに近づいている」。ベルリン、ロンドン、パリ…着陸地二十九カ所、不時着計三回を重ねた末、約三カ月後の八月三十一日午後五時五十七分、ローマ・リットリオ飛行場に着陸。予定の三倍かかった。
 大歓迎を受け、当時の吉田茂イタリア大使(戦後の首相)らと記念撮影。ムソリーニ首相やローマ教皇ピウス十一世にも謁見(えっけん)。栗村飛行士が百閒に打った電報は−「道一つ羅馬の都に着きにけり、ワッハッハ」。
 その後、ファシズムは次第に欧州を席巻。日本も満州事変から日中戦争、太平洋戦争へと亡国の道をたどる。航空研究会のOBにも戦死者が出た。

ローマ到着後、青年日本号の前で記念撮影する栗村飛行士(中央左)と熊川飛行士(同右)。前列左から3人目は当時のイタリア大使・吉田茂(HOSEIミュージアム提供)

◆学生初の快挙 内田百閒が計画

 昭和モダンが花開く一方で、軍靴の音が聞こえる1931年。栗村盛孝が日本の学生として初めて訪欧飛行を成功させた。まさに世紀の快挙だった。「青年日本号」は、前年に誕生した本学新校歌の一節「青年日本の代表者」から命名された。
 学生の発案で日本の大学では初の航空研究会(後の航空部)が創設され、会長就任を要請されたのが予科教授の内田榮造(百閒)だった。百閒は夏目漱石門下の小説・随筆家。乗り物好きが高じて学生の訪欧飛行を最初に計画した人でもあった。
 百閒は訪欧飛行2年後、「臆病と云(い)う事は不徳ではない。のみならず場合によれば野人の勇敢よりも遥(はる)かに尊い道徳である」(「百鬼園日記帖」)という名言を残した。臆病だからこそ、さまざまな恐怖を想像できる人間の尊さを説いている。(法政大学人間環境学部教授 根崎光男)

◆1931年はこんな年

 大恐慌から2年。前年に東京駅で狙撃された浜口雄幸首相が退陣(4月)、第2次若槻礼次郎内閣が発足。失業者が激増し、「いやじゃありませんか」「電光石火」が流行語となった。9月には関東軍が満州の占領を目指し、奉天(現在の瀋陽)郊外の満鉄線を爆破(柳条湖事件)、満州事変が勃発した。
<石川島R三型練習機> 石川島飛行機製作所が訪欧飛行のため製作した複葉機。105馬力の英国製エンジンを搭載、全長7.52メートル、全幅9.8メートル。最大時速150キロ、巡航速度120キロ。航続距離1200キロ。乗員2人。
 文・加藤行平
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