ワクチン考現学

2021年6月1日 08時11分
 世界を苦しめる新型コロナウイルス。克服の決め手と期待されるのがワクチンだ。これだけ短期間かつ多人数に接種されるのは歴史上初めて。異例の事態を通じて世界の「今」や「問題」が見えてきた。

<新型コロナワクチン> 現在主流のファイザー、モデルナの製品は、初めて実用化されたRNAワクチン。ウイルスの遺伝子(RNA)を投与し、体内でウイルスタンパク質を作らせ、免疫反応を起こさせる。これまでの知見では有効性は高く、深刻な副反応も少ない。英国の大学の統計によると、日本の接種率は世界的にみて、かなり低い。

◆早く広まれば制御可 免疫学者・宮坂昌之さん

 日本は一九一八年のスペイン風邪以降、大きなパンデミック(世界的大流行)を経験していない感染症鎖国。新型コロナは、まさにペリーの黒船です。
 太平の日本は「ワクチンギャップ」と呼ばれる状態。かつてワクチンの副反応で訴訟が相次いだことから、厚生労働省がなかなか承認をせず、各国に比べてワクチン流通が少なかったのです。国産ワクチンの開発も遅れていた。昨年初めの段階で、これは大変なことになると思いましたが、その通りでした。
 実際の新型コロナは、思った以上の難敵でした。このウイルスは体内への異物侵入に対する防御システムを活性化させる物質インターフェロンを作りにくくさせます。逆に、感染後期ではインターフェロンを過剰に作らせ、免疫が暴走して炎症を起こし急激に症状が悪化します。
 困るのは「発症前に感染させる」という武器を持っていること。感染拡大を防ぐのが難しい。もう一つは、症状や感染性がなくなってもPCR検査で陽性が残ることがあり、結果、病床がなかなか空かない。これが医療崩壊を招くのです。
 しかし、希望は見えています。決め手はやはりワクチンです。これさえ早く広まるなら、コントロール可能な感染症と確信しています。実は、私も当初はワクチン慎重派でした。ファイザー社製などのワクチンはメッセンジャーRNAを使った初めての製品だったからです。しかし、今は考えを変えました。
 イスラエルのデータでは、感染、発症、重症化をいずれも予防する力がある。こんなワクチンは見たことがありません。約八億人が接種を受けましたが、既存のワクチン以上の副反応は出ていない。新型コロナの変異の頻度はインフルエンザなどに比べればずっと少ないので、今のワクチンが変異型に効かないということもないでしょう。
 ワクチン以外にもモノクローナル抗体と呼ばれる人工の抗体による治療薬も期待できます。海外の製薬会社は既に多種類の抗体を用意していて、変異株にも対応できる見通しです。
 とはいえ、五輪前に感染者が減ることはないでしょう。みんなが当事者意識を持って行動しないといけません。市民が陰謀論に走るなど黒船にパニックにならないよう、マスコミはワクチンやPCR検査などの科学的事実を正確に伝えてほしいと思います。 (聞き手・大森雅弥)

<みやさか・まさゆき> 1947年、長野県生まれ。大阪大免疫学フロンティア研究センター招へい教授。著書に『新型コロナ7つの謎』『免疫力を強くする』(いずれも講談社ブルーバックス)など。

◆行政手法がカギ握る 東京大公共政策大学院教授・鈴木一人さん

 途上国で広がることが多かった従来の感染症と異なり、新型コロナは、欧米諸国で多くの感染者を出しました。欧米の民主主義国家が自国民のためのワクチン確保に全力で取り組む一方で、中国、ロシアといった権威主義国家の輸出を優先した「ワクチン外交」が顕著でした。例えば中国は、台湾と国交がある中南米のパラグアイやホンジュラスに対しワクチン提供の条件として国交断絶を迫っています。
 対抗措置として、日本、米国、オーストラリア、インドの「クアッド」の枠組みで、インド製ワクチンの増産を支援し、途上国などへ供給するという動きがありましたが、インドで起きた変異株の感染爆発で、状況が変わってしまいました。しかし、欧米各国ではワクチンが行き渡りつつあり、今後需給バランスが取れた段階で、「マスク外交」が一過性だったように、「ワクチン外交」という言葉も実体を失い、影を潜めていくでしょう。
 日本を指して「ワクチン敗戦」と断じることも私は適当ではないと思っています。韓国、台湾、シンガポールもワクチン接種は欧米ほど進んでいない。日本も含めこうした国や地域では、ワクチン以外の方法で一時期、感染拡大を抑えこむことができていたことは考慮されるべきです。しかし、日本国内に数千万回分あるワクチンが一千万回余(五月二十五日現在)しか打てていない現状は、行政手法が間違っていたのではと、批判せざるをえません。接種の公正さにこだわって「早い者勝ち」となり、都市部などでは、予約の電話がつながらなくなってしまいました。ワクチン接種を求める人で長蛇の列ができてしまった米フロリダ州などの先行例から学んでいません。
 少子高齢化が進む日本では、これからもワクチンより治療薬の開発に重点が置かれるでしょうし、独占禁止法のからみもあり、高度な技術を要するメッセンジャーRNAワクチンの開発にチャレンジしようとする巨大な製薬会社が出てくるとも考えにくいのです。海外で開発されたワクチンのライセンスを取得して国内で生産する。生産工場への特化が、日本の進むべき道でしょう。ワクチンが国内で開発できないことと接種の遅れには因果関係はありません。ワクチン生産国との交渉経緯も含めた行政手法に注目すべきです。 (聞き手・中山敬三)

<すずき・かずと> 1970年、長野県生まれ。専門は、国際政治経済学、科学技術政策論。著書に『宇宙開発と国際政治』(岩波書店)、『グローバリゼーションと国民国家』(共著、青木書店)。

◆世界的な協力体制を 国境なき医師団日本会長・久留宮隆さん

 日本では今、新型コロナウイルス感染者が増え、医療崩壊が懸念されています。しかし、途上国に目を向ければ、もともと医療が機能していない国が多くあります。そういう国では、ワクチン接種で感染を防ぐことが最も有効なコロナ対策です。
 ところが、低所得国のワクチン接種率(五月二十日現在)は0・7%にすぎず、高所得国の49・4%と比べ、大きな格差があります。豊かな国がワクチンを買い占め、途上国には回らないのが現状です。
 昨年十月、インドと南アフリカが、世界貿易機関(WTO)に対し、重要な提案をしました。ワクチンをはじめとする医療ツールについて、特許権を含む知的財産権を一時停止するという画期的な内容です。先進国の多くは反対してきましたが、米国は賛成に転じました。
 ワクチンは、製薬会社だけの力で開発できたわけではありません。国が持つ技術を提供し、治験には市民が協力しました。資金面でも、米国だけで百億ドル以上の公的資金が投入されたといわれます。ワクチンは「世界の公共財」なのです。
 企業が利益を求めるのは当然です。しかし、現在のような緊急時に、利潤の追求と人々の命を救うことのどちらが優先されるべきなのか。答えは分かっているはずです。知財は平時の権利であって、人命に関わる緊急時に、それは生産拡大を阻害する障壁になっています。
 世界中で集団免疫を獲得するためには、ワクチンが圧倒的に不足しています。生産を世界に広げなければ対応できません。途上国でワクチンを生産できるのかという指摘もありますが、生産能力を持つ企業は新興国や途上国にもあります。ただ、作り方のノウハウなど技術移転は必要になるでしょう。
 米国政府が反対から賛成へ方針転換した背景には、米国民の声もあったそうです。「自分たちだけでワクチンを独り占めするのか」「国際社会に対する責任を果たさないのか」という声が、バイデン政権にプレッシャーになりました。
 世界的な危機にどう対処するか。国際社会にも目を向け、広い視野で議論する必要があります。コロナ後も、別の感染症が出てくる可能性はあります。今ここで世界的な協力体制を確保することは、将来に対しても大きな意味を持っています。(聞き手・越智俊至)

<くるみや・たかし> 1959年、愛知県生まれ。外科医。2004年から「国境なき医師団」の活動に参加。これまでに12カ国で15回の医療・人道援助活動に携わる。20年3月から現職。三重県在住。


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