ルッキズムと向き合う

2021年6月8日 07時50分
 見た目で人を判断するルッキズム。五輪関係者が女性タレントの容姿を侮辱するような発言をしたことで、あらためて注目されるようになった。言葉としては新しいが、歴史は古い。そんなルッキズムについて考える。

<ルッキズム> 容姿や身体的特徴などで人を判断すること。または、それに基づく偏見や差別。「外見至上主義」と訳されることが多い。1970年代の米国で、肥満を理由とした差別に抗議する運動の中で使われたのが始まりとされる。日本で使われるようになったのは最近で、2018年発行の「広辞苑第7版」には採用されていない。ルッキズム批判を背景にミスコンテストは衰退。上智大では、昨年の学園祭で従来のミスコンを廃止し、男女を問わず出場でき、スピーチなどを競う形に変更した。

◆理不尽な差別解消を 歴史社会学者・田中ひかるさん

 日本で「ルッキズム」という言葉を頻繁に見聞きするようになったのは、ここ数年のことです。これは、女性差別をなくそうという流れと無関係ではありません。男性もルッキズムの対象になりますが、女性の方がより外見で判断されることが多いからです。
 地方自治体や商工会議所などがこぞってミスコンテストを開催していたバブルの頃は、外見至上主義が当たり前のような時代でした。
 私自身が、社会にはびこっているルッキズムを強く意識したのは、二十年ほど前、人材派遣会社に登録した時のことです。登録者の個人情報が外部流出して発覚したのですが、その派遣会社は面接の際、登録者の容姿を勝手にランク付けしていたのです。
 企業は求人票に「容姿端麗」と書くことを禁じられています。でも本音では「美人」がほしい。だから人材派遣会社は、容姿についての情報も提供していたのです。当時はあまり問題になりませんでしたが、現在なら大問題でしょう。
 企業の採用には、今もルッキズムの傾向が見られます。「リクルート整形」をする人が男女問わず増えているという現実は、それを反映しています。手軽に行える「プチ整形」が美容整形のハードルを下げているということもあるでしょう。
 就職に限らず、整形することで得をするのであれば、やりたいと考えるのは当然です。それ自体が悪いことだとは思いません。でもそれが、他人に容姿を揶揄(やゆ)され、コンプレックスを植え付けられた結果だとしたら、と考えると複雑な思いがあります。人の容姿を軽々しく批評することで相手を傷つけ、人生を変えてしまう可能性もあります。私たちは、それを自覚すべきです。
 外見を生かして、モデルやタレントになるというのは、もちろんいいんです。でも、そうではない人を勝手に土俵に上げて採点するのはいけません。
 ルッキズムは根が深く、私の中にもあります。以前は、ほめるのは構わないだろうと思っていたのですが、外見に言及されること自体が不快な人もいます。確かに、思ったままを口にするのは不作法ですよね。「ルッキズム」という言葉が広まることで、理不尽な容姿差別が解消されるといいと思います。 (聞き手・越智俊至)

<たなか・ひかる> 1970年、東京都生まれ。女性に関するテーマを中心に執筆・講演活動を行う。著書に『月経と犯罪』『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』『生理用品の社会史』など。

◆美しさに正解はない 写真家・澤田知子さん

 この春、東京都写真美術館で開催した個展「狐の嫁いり」に、千三百枚を超えるセルフポートレート(自写像)作品を展示しました。二十五年の間に二千回近くの変装を繰り返し作品を作っています。変装と言っても、特定のモデルがいるわけではなく普段の自分と違う外見に見えるように変装するだけで演じるわけでも誰かになりきるわけでもありません。いつも先に衣装とウィッグを用意して、一枚ずつ衣装を替える場合には衣装から想像してメークと髪形を決めます。変装はいつも即興で変装にプランはありません。決まっているのは作品のコンセプトと変装するモチーフだけで、全ての写真が違う人物が写っているように見えるように変装を繰り返します。
 全ての作品に同じ人物が写っているとわかっていても、全てまるで別人のように見える写真を前に、鑑賞者の方は想像を膨らませ、深読みをする方もいます。好きな写真を一枚選んでもらい、写っている人物について語ってもらうという過去のワークショップでは、人物にまつわるストーリーが驚くほどたくさん出てきました。これは人が日常的にそれだけの情報を外見から読み取っているということでもあります。同じ写真なのに人によって解釈が正反対になることもあります。外見と内面の関係に答えがないのは、個々の価値観や経験によって対象の捉え方が大きく変わってしまうという要素も大きいと思います。
 米ニューヨークに滞在していたころ、強く感じたことがあります。日本のメディアは「これが正解」という女性像をつくりがちです。まるで美しさの代表とでも言うように一人の女優かモデルを取り上げて、その人の外見が正解で、その人以外は正解じゃないという雰囲気をつくりあげていく。そして日本のファッション雑誌は教科書のようです。そのためか、その正解に入っていないと感じた女性が私の作品を見て気持ちが解放されることもあるようです。
 私の制作テーマである外見と内面の関係に答えがでないように、美しさにも良い外見にも定義はないでしょう。それは人間関係や周りの環境が変わるだけでも簡単に変化するものです。「これが正解」と決めつける根拠がきわめて貧弱だということに、多くの人は気が付いているのではないでしょうか。 (聞き手・中山敬三)

<さわだ・ともこ> 1977年、兵庫県生まれ。『狐の嫁いり』『FACIAL SIGNATURE』『Kawaii』(いずれも青幻舎)などセルフポートレートの写真集を出版。成安造形大客員教授。

器量に階級存在せず 翻訳家・評論家・芝山幹郎さん

 人種差別や性差別は、なかなか消滅しない。見た目で社会的な損得が分かれるルッキズムも、しつこく存在する。くだらない。「器量を鼻にかける」などという行為は、昔から低次元のものと見なされてきたはずだ。
 そういえば、家柄や資産の有無によって利害が分かれる社会構造はもっとアンフェアかもしれない。にもかかわらず、資産や階級の廃絶を唱えた社会主義国家が、結果的にエリート官僚の専横という「もっと悪質な不平等」を招いてしまうのだから、皮肉にもほどがある。
 つまり、不平等はどんな場面でも露出する。ただ、笑える不平等と、笑えない不平等がある。ルッキズムがもたらす不平等など、実は、笑い飛ばすことができるものではないか。美醜には絶対的基準などないし、器量には階級など存在しないからだ。
 舞踏家の土方巽(ひじかたたつみ)さんは、かつて「感受性や美意識には階級がある」と喝破した。私はこの言葉に賛意を表したい。器量自体に階級はないが、感受性には階級がある。その高低に従って、面白い顔や魅力的な顔の基準、退屈な顔や煩わしい顔の基準も生まれてくる。目鼻立ちが整っていてもつまらない顔は、いくらでもある。ただし、感受性の階級とは、固定されたものではない。やすりをかけ忘れると、感受性はたちまち鈍化する。
 この構造を、役者に当てはめるとどうなるだろうか。器量自慢の役者は階級が低い。そもそも、役者は自己表現など意に介さない。役者の仕事は他者の人生に入り込むことだから、外見の自在な改造はもとより、メンタリティの変化も求められる。「特権的肉体」という言葉は、そこから生まれる。
 巧(うま)い役者、面白い役者には、かならずといってよいほど「器量を忘れる」瞬間が訪れる。カメレオン俳優、怪優、サイコ俳優…こうした側面を持ち合わせていないと、役者は生き残れない。モデルにしたところで、突拍子もない服を着こなせる特権的肉体を保有することは、いまや必須の条件だろう。
 そういえば、映画監督のアキ・カウリスマキが面白いことを言っている。
 「私は左右対称の顔をした俳優が好きじゃない。キャメラにはエックス線の眼が備わっているから、人間はキャメラを欺けないのだ。美醜の基準など、どこにあるというのだろう」
 これにも、私は賛成したい。 (寄稿)

<しばやま・みきお> 1948年、石川県生まれ。映画やスポーツに造詣が深く、『映画西口東口』『スポーツ映画トップ100』など著書多数。近著は『スターは楽し』(文春新書)。

<お断り>「考える広場」来週は休みます。次回掲載は6月22日です。

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