文化は多様さの包摂 バーミヤン大仏爆破20年 修復に尽力 前田耕作さん(東京芸術大学客員教授)

2021年6月12日 13時06分
 二〇〇一年三月、アフガニスタンの仏教遺跡バーミヤンの大仏二体が、イスラム教原理主義のタリバンによって爆破され、消失した。「破壊が想定をはるかに超えていた。爆破があれほど徹底的とは。大仏の形が全く残っていなかった」。東京芸術大客員教授の前田耕作さん(88)は〇三年、現地入りして惨状を目の当たりにし、怒りに震えた。各国が参加する修復プロジェクトの中心にいたこの二十年間、深く傷ついた遺跡の価値を世界に伝える使命感に突き動かされてきた。
 首都カブールから北西に百二十キロ。中央アジアの砂漠のオアシスとして古くから栄えたバーミヤン。東西約一キロの崖に彫り込まれた高さ三十八メートルの東大仏と、五十五メートルの西大仏はその象徴だった。
 アジア文化史の研究者として、これまで何度も対面してきた二体はがれきになっていた。遺跡の保存修復のため、日本と国連教育科学文化機関(ユネスコ)が組んだ合同調査団のメンバーとして詳しく調べると、仏堂や石窟などに描かれた、世界に誇るべき仏教壁画も80%が失われていた。
 バーミヤンの地を初めて踏んだのは一九六四年。アフガンの仏教遺跡を調べるため名古屋大学が編成した調査隊に加わった。当地での最初の朝、ホテルの窓から外を見ると、東大仏が朝日に照らされ荘厳に輝いていた。
 バーミヤンは当時、世界中からヒッピーが集まるほどよく知られていた場所だったが、学術調査となると一九二〇年代のフランス隊の成果があるくらい。遺跡を細かく見ていくと、ある石窟の中に未確認の仏陀(ぶっだ)の壁画を発見した。後の調査で菩薩(ぼさつ)立像なども見つかり、大学名の頭文字から「N窟」と命名された。だが、それも破壊されていた。
 三重県出身で、名古屋市で育った。戦況の悪化は少年の目にも明らかで、名古屋駅前が空襲で一草一木もない焼け野原になったのも見た。中学一年で終戦を迎えると、新生日本の歩みとともに青春を過ごし、同大文学部に入学。ラテン語から哲学、文学、考古学と、さまざまな知識を貪欲に吸収していった。
 「既成の価値観がいったん壊れた時代。新しい時代に向けて多様な考えが沸き立っていた」。一つの観点から問題を追求していくのではなく、絶えずいくつもの考えを組み合わせようという姿勢で思考力を鍛え上げた。
 「一」より「多」を、「絶対」より「相対」を念頭に置いて文化を考察するとき、古代から東西文明交易路の要衝の地であるアフガンは理想のモデルだ。和光大に籍を置いて研究者になった後もバーミヤンに入り、国際的な文化交流の証しをいくつも探し当てた。
 バーミヤン遺跡を特徴づける弥勒(みろく)像に着目する。仏典によれば弥勒は釈迦(しゃか)の没後の遠い未来にこの世に出現して衆生を救済する仏だが、二世紀はじめにこの地に栄えた古代王朝「クシャン朝」で信仰されていた、イランの神格にルーツがあるという説を打ち出している。
 「文化は単独で生まれるものではなく、いつも多様な土台の上に成り立っている。他の文化を排除することなしに、包み込むことによって発展してきた」
 バーミヤンの核心ともいえる弥勒像を復元する取り組みが進んでいる。東大仏の西側にあった石窟で、座仏を覆う天蓋(てんがい)を飾っていた壁画「青の弥勒」は、爆破で座仏もろとも失われたが、一九七〇年代の日本の調査隊が記録した画像データを基に、東京芸術大が最新の技術で原寸大で3D復元する。
 今秋、同大で開く「みろく−終わりの彼方 弥勒の世界展」でお披露目の予定。この展示ではアフガンから中国、さらに日本に広がった弥勒信仰の伝播(でんぱ)ルートと変遷をたどる。
 「弥勒は東西に移る中で、その土地の知恵を集めて変化していった」。「青」はアフガン特産の鉱石ラピスラズリの青。この弥勒を鮮やかに彩っていた衣の色だ。日本とアフガンが正式に国交を樹立して二十年の節目でもある今年、「青の弥勒」がバーミヤンで花開いた多元文化へといざなう。 (栗原淳)

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