<デスクの眼>プーチン大統領の「平和条約」をうのみにするな

2021年6月16日 18時00分
プーチン大統領(AP)

プーチン大統領(AP)

 日ロ関係をめぐる最近の一部報道には首をかしげずにはいられなかった。プーチン大統領は4日、各国通信社トップとのオンライン会見で、日本との平和条約交渉について領土割譲禁止条項を盛り込んだ憲法改正を考慮する必要があるが「交渉を中断すべきとは思わない」と述べた。この発言について「日本との領土交渉は禁じられたとのロシア政界の主張を覆した」などと前向きなトーンで大きく伝えたからだ。

◆「領土問題」なき平和条約とは?

 既に日ロ双方の高官が明らかにしているように、ロシア側は領土問題を盛り込まない平和条約を結ぼうと提案している。これは何を意味するのか。プーチン氏らの言う平和条約は本質的に「平和条約」ではないということだ。日ロで国際法上残された問題は領土の画定以外にないからだ。つまるところ、ソ連時代からロシアが対日戦略の大目標としていた「善隣条約」のような条約締結が狙いだろう。実は一つの草案は明らかになっている。ソ連・ブレジネフ時代の1978年1月、当時のグロムイコ外相が、「日ソ善隣協力条約」の草案を訪ソした園田直外相に押しつけるように提示した。さらに日本の同意なく、2月下旬、「イズベスチヤ」紙や「プラウダ」紙に一方的に公表した。その第3条では「ソ連と日本は締約国の一方の安全に損害を与え得るいかなる行動のためにも自国の領土を使用させない義務を負う」とあり、第4条には、「締約国は、そのいずれかに対する侵略行為を第3国にとらせるようないかなる行動を差しひかえる義務を負う」と明記されている。
 これらが意味することは、在日米軍基地の撤廃をはじめ、日米同盟の維持を不可能とさせる措置を義務付けるなど、「善隣協力条約」によって日本に対する恒常的な内政干渉が可能となるということだ。非礼な内容であるとして、日本側の憤激を巻き起こした。ロシア外交研究の泰斗だった故木村汎・北海道大名誉教授は、「日本をまるでソ連の衛星国ないし同盟国とみなすがごとき類のもの」(「日露国境交渉史」)と批判した。

◆狙いは日米同盟の弱体化

 プーチン氏の対日戦略の中心にあるのは日米同盟の弱体化、日米離間にあるのは間違いない。英国で開かれた先進7カ国首脳会議(G7サミット)でも示されたように、ロシアは中国と並んで欧米など先進民主主義諸国と厳しく対立している。しかし日本はG7の一員だが、主体的な対ロ批判を避け、経済協力を粛々と進める構えだ。プーチン氏にとって最も都合の良い「西側」政権といえる。交渉を中断し、わざわざ関係を悪化させるなど、ありえない選択肢だ。
 「平和条約」という名称であれ、「善隣友好条約」という名称であれ、もしロシアが日本と前述のような条約を締結すれば、現在も対米戦略上の意義が最も大きい。日米安保体制は機能しなくなり、日米同盟は瓦解するからだ。これにより日本は、事実上、「中立的」な地位に置かれ、民主主義国による国際的な対ロ包囲網の一角が崩れる。これだけでも、ロシア側の大勝利だが、「善隣条約」締結で経済大国日本との大型プロジェクト、技術協力など経済・技術協力が大幅に拡大すれば、制裁などで苦境にあるロシア経済にとって恵みの雨となる。さらには人的交流や、社会、文化、芸術など各方面交流の活発化し、親ロ雰囲気の醸成にも役立つ。このほか、国力の差が歴然としている最大のパートナー中国へのけん制にもつながり東アジア戦略上の意義も大きい。支持率低下に悩むプーチン政権にとって、大変な追い風となるだろう。実現可能性は皆無に等しいが、プーチン氏にとっては、まさに夢のような話だ。
 逆に言えば、日本側にとってこうした条約の締結は、国益に壊滅的な打撃を与えることは言うまでもない。北方領土問題は永久に棚上げされ、軍事大国ロシアによる恒久的な内政干渉を招き、もはや自主的な外交政策を行うことすら不可能になる。そうなれば、欧米など民主主義諸国からの日本への信頼は大幅低下し、事実上の孤立状態に置かれるだろう。日本にとってまさに「亡国の道」以外のなにものでもない。

◆交渉中断はマイナスか?

 プーチン氏は会見で、「日ロは戦略的に平和条約締結に関心がある」と強調したが、権威主義を強める現在のロシアと、民主主義を主導する役割が国際的に期待される日本との戦略的な利害が一致しているとは、到底言えないことは明白だ。むしろ、根本的に対立しているというべきだ。
 そもそもプーチン氏は、冷戦を終結させたゴルバチョフソ連大統領や、ソ連を解体させた新生ロシアのリーダーとして欧米や日本との共通の価値観を掲げたエリツィン初代ロシア大統領の外交路線を、冷戦時代の旧ソ連さながらに、米国を中心とする民主主義陣営との対立路線へと全面転換させた。米国と並ぶ強大な核戦力や各種新兵器の威圧を背景にして、中国とともに、リベラルな国際秩序や普遍的な価値観への挑戦状を叩きつけているのだ。
 こうみてくれば、憲法改正の有無に関係なくプーチン氏が日本との平和条約交渉を中断する考えなど毛頭ないことが分かるだろう。もし交渉中断なら、ロシアが最も望む「8項目の経済協力」などの経済協力プログラムの推進も困難になるばかりか、中ロ関係でも「日本カード」を失い、東アジア外交で不利な立場に置かれるのは明白だ。安倍晋三前政権を継承した菅義偉政権も対ロ政策の「大失敗」を認めることになる。日ロ両政権は同床異夢だが、双方とも「交渉を続ける」と言う以外、選択肢はない。ただ安倍・プーチン交渉がもたらした「負の遺産」をいったんリセットする機会につながると考えれば、「中断」は、日本にとってはあながちマイナスばかりとも言い切れないだろう。

◆プーチン氏は情報戦のプロ

 さて、日本のある専門家は、北方領土交渉についてコメントする場合、「後ろ向きなトーンでは相手にされないし、マスコミに使ってもらえない」と本音を漏らしたことがある。プーチン氏は、自分の片言隻句に一喜一憂する日本メディアや専門家らの行動様式を知り尽くしているだろう。筆者は、プーチン氏は日本人の期待感を持続させるために、節目節目で積極的とも聞こえる発言をいわば「カンフル剤」として効果的に用いていると考えてきた。約9年前の「引き分け」発言以来、こうした例は枚挙にいとまがない。
 米前政権で対ロ政策を担った著名なロシア研究者フィオナ・ヒル氏が強調するように、プーチン氏の言葉をくれぐれもうのみにしてはいけない。ソ連国家保安委員会(KGB)出身のプーチン氏ら現在のロシアの政権中枢は情報戦のプロであることを肝に銘じたい。(常盤伸)

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