北硫黄島「石野遺跡」 石の謎30年 先史時代の痕跡、調査中断のまま

2021年7月2日 07時11分

東側から見た北硫黄島=2019年6月撮影(東京都小笠原支庁提供)

 世界自然遺産の小笠原諸島の小さな無人島に、推定2000年前の文化遺産があるのをご存じだろうか。北硫黄島の「石野遺跡」には、絵が彫られた巨石やストーンサークルなどが残されている。古代の海の民はどこから、何のためにやってきたのか−。調査は事故のために中断され、多くの謎は未解明のまま。5日で発見から30年を迎える。
 「そりゃあもう、大喜びでしたよ。先史時代の人間活動の痕跡を、ついにここにも見つけた、と」
 こう振り返るのは、元沖縄県立埋蔵文化財センター所長の安里嗣淳(あさとしじゅん)さん(76)。一九九一年七月五日午前、石野遺跡の発見に立ち会った八人のうちの一人だ。
 胸の高さまで茂った低木をかき分け、戦前の集落跡の裏山を歩いていた。ふと腰を下ろすと、地面のあちこちに土器片や打製石器が。<もしかして、こういう所を遺跡と言うのではないか><そうだ、遺跡だ>。調査報告書にはその瞬間の会話が記されている。
 石野遺跡は長さ五十メートル、幅二十メートル。北西側に調査団が「祭壇」と呼ぶ二段の石組みがある。最上部に高さ約一・二メートルの岩が置かれている。祭壇の前は、岩石のない約九十平方メートルの空間で通称「広場」だ。
 南東部にある遺構は多彩だ。高さ一・六メートルの巨石は「×」形や「α」形、ひし形などの線刻画が見える。鋭い道具でたたいて線を刻む「ペッキング」の手法で、かなり遠いがハワイの岩絵と同じだ。大小の石が弧を描くストーンサークルもある。小石の山にはシャコ貝やサンゴも置かれ、琉球諸島の遺跡の墓と似ている。分析の結果、約二千年前のシャコ貝だった。

<祭壇?>祭壇とみられる石組み。斜面を利用して2段の石列が並び、最上部の中央に大きな「鏡石」がある

<巨石>線刻画のある巨石。中央に大きな「×」形、左上にひし形などが刻まれている

<墓地?>ストーンサークルのように、石を積んだ山が円を描くようにいくつも並ぶ。琉球諸島の遺跡の墓地と共通点がある=遺跡の写真はすべて小田静夫さん提供

 「明らかに、何らかの儀式に使われた遺跡です。海の民が航海の無事を祈る、祭祀(さいし)の島だったのかもしれない」と、調査団に参加した元東京都教育庁学芸員の小田静夫さん(78)は話す。

北硫黄島の石野遺跡について振り返る元東京都教育庁学芸員の小田静夫さん=八王子市で

 小田さんによると、調査の発端は北硫黄島が有人島だった一九二〇(大正九)年。東京帝大の植物学者が島の警察官から磨製の石おのを入手した。六八年に小笠原諸島の施政権が米国から返還され、七二年に小田さんらが父島、母島で石器などを見つけた。北硫黄島では九〇年夏に初調査。九一年に石野遺跡が見つかり、いよいよ本格的な調査が計画されたが…。
 九三年七月、二人の調査団員が昼休みに行方不明に。ともに海中から遺体で見つかり、測量などの段階で調査は打ち切られた。
 「調査再開どころか、北硫黄島の名前さえ、もう触れられない雰囲気でした」と小田さん。その後、動植物などの研究者は何度も北硫黄島に上陸したが、石野遺跡の研究を継いだ人はいない。安里さんも「墓地のような遺構から人骨や副葬品が見つかれば、人の移動のルートが分かったかもしれませんが」と残念がる。
 三十年の節目に小田さんは思う。「この島で、オセアニアや琉球諸島からの文化が交差したのかもしれない。日本列島とは違う『もう一つの日本文化』の遺跡を一人でも多くの人に知ってほしい」
<北硫黄島> 東京都心から約1100キロ、小笠原諸島の父島からは約200キロ離れた無人島。太平洋戦争の激戦地、硫黄島の約70キロ北。険しい地形だが1899(明治32)年に入植が始まり、サトウキビ栽培や製糖業で最大200人超が生活。小学校もあった。1944(昭和19)年の強制疎開で再び無人島に。石野遺跡は、島の東側にあった旧石野村の近く、川沿いの斜面で見つかった。
 文・谷岡聖史
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