言葉の力は時を超え シェークスピア劇を完訳 松岡和子さん(翻訳家・演劇評論家)

2021年7月10日 13時20分
 日本で根強い人気を誇るウィリアム・シェークスピア(一五六四〜一六一六年)の劇作品。翻訳に取り組んできた松岡和子さん(79)の「シェイクスピア全集」(ちくま文庫)が、五月に刊行された三十三巻『終わりよければすべてよし』で完結した。一九九六年に出た一巻『ハムレット』から二十五年。戯曲全三十七作の日本語訳は、坪内逍遥、小田島雄志さんに続き三人目となる偉業だ。
 「これで全部終わった、という大きな安堵(あんど)感と、すごい作品だったのね、というシェークスピアに対する驚異の念と。万感胸に迫るという感じですね」。昨年十二月の訳了当時を振り返り、松岡さんがにっこりと笑う。
 初めてシェークスピア劇を翻訳したのは、五十一歳の時。東京女子大在学中にその魅力に触れて以来、面白さにひかれながらも「難しいから逃げて、そうすると通せんぼされる。その繰り返しだった」。東京大大学院で学んだ時も、現代劇を訳していた時期も、作品の背景には必ず避けたはずのシェークスピアがいた。
 ついに真正面から向き合うことになったのは、劇場公演のための翻訳を頼まれたからだった。数本を訳したところでちくま文庫の全集化が決まり、装画は憧れだった安野光雅さんが引き受けてくれた。九八年からは、蜷川幸雄さん演出の舞台「彩の国シェイクスピア・シリーズ」の上演と並行して翻訳を進めてきた。
 「その時々にいろんな人が『こっちへおいで』と言ってくれて、いま、ここにいる。運命としか思えないですよね」。共に喜びたかった安野さんは昨年十二月、蜷川さんは二〇一六年にこの世を去り、「それが本当に残念」と惜しむ。
 翻訳は当初から、女性の言葉遣いに気を配ろうと決めていた。例えば、『ロミオとジュリエット』で主人公二人が、バルコニーの上と下で語り合う場面。多くの先行訳はジュリエットがへりくだった口調だが、松岡さんは「二人は対等です」。原文で、ジュリエットがロミオに対して「you(あなた)」ではなく、よりくだけた当時の言葉「thou」を使っているからだ。
 「それこそ、女に(翻訳の)順番が回ってきたんですよ。もちろん、女の訳し方なんてないですよ。シェークスピアが書いたことを男寄りに訳しちゃだめ、ということなんです」
 その集大成が、『終わりよければすべてよし』。主人公のヘレンが、青年伯爵との身分違いの恋を成就させる物語だ。松岡さんは、結婚の条件をクリアしたヘレンが、青年伯爵に問いかけるせりふに悩んだ末、こう訳した。<これが二つとも果たされたいま、あなたは私の夫、いかが?>
 原文「Will you〜?」を踏まえ、ヘレンががさつ者にならず、かつ、へりくだらない表現を探し当てた。三十七作品中、男性の身分の方が上という設定は例外的であること、女性の登場人物のせりふで幕を開ける作品は他にないことなども確かめると、今作が最後だったことにもまた、「運命」を感じた。
 二十八年間夢中で向き合ったシェークスピアの言葉は、さまざまな局面で松岡さんの思いを代弁してくれるという。夫の陽一さん(享年八十)の闘病を支えた時は、『ハムレット』の「覚悟がすべてだ(The readiness is all.)」をつぶやいて、気持ちを立て直した。「これからも常に自分のそばにいてほしい言葉」と話す。
 最近は、もやもやした気分が「もう生きていたくない」(『終わりよければすべてよし』)にフィットする。「厭世(えんせい)観を表現する言葉としてね。四百年前に書いた芝居の中で王様に言わせてる言葉が、四百年後の東京で暮らしてるわたしにとって力になる、ガス抜きになるんですよね」
 大きな仕事を成し遂げたいま、松岡さんはシェークスピアを「分かったつもり破壊者」と呼ぶ。「訳したからって、隅から隅まで分かったと思っちゃ大間違い。時間がたってから『そうだったんだ』と気づくようなことがあるんですよ、しょっちゅう」。シェークスピアの言葉を巡る探究に、終わりはないようだ。 (北爪三記)

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