姿消す、戦時下の学舎 千葉の東大旧第二工学部 「貴重な歴史遺産」研究者ら反対も

2021年7月16日 07時03分

共通第三教室棟=いずれも千葉市稲毛区で(東京大学生産技術研究所提供)

 太平洋戦争開戦直後から戦後間もない時期まで、千葉市稲毛区に東京帝国大学(現東大)の第二工学部が置かれていたことは、地元でもほとんど知られていない。千葉大学西千葉キャンパスに隣接する跡地にある木造校舎二棟は近く解体されるが、千葉大の一部教員らが「大学と戦争の関わりを知り、戦争と地域社会の記憶を語り継ぐために必要な歴史遺産だ」と保存を求めている。
 第二工学部は太平洋戦争開戦から四カ月後の一九四二(昭和十七)年四月、工学系の技術者養成の需要を受けて開設された。「東京大学第二工学部史」などの資料では、航空機や兵器の研究のほか、軍委嘱の研究も行われていたと推察されているが詳しくは明らかになっていない。戦後は工学部縮小の議論の中、開設からわずか九年で閉鎖された。
 その後、敷地の大部分は千葉大が取得し、北東側約九・八ヘクタールは、同学部を前身とする東大生産技術研究所千葉実験所に。第二工学部の木造二階建て校舎二棟は事務棟などとして利用されてきた。
 東大は二〇一七年に実験所を千葉県柏市に移転し、跡地の売却を決定。校舎などを解体し、千葉大と一部の土地を入れ替えて更地にした上で開発事業者に売却する計画で、今年六月から解体に向け敷地内の整備を進めている。
 この解体に待ったをかけているのが、千葉大の一部教員らだ。

共通第三教室棟内に残る実験設備(二工木造校舎アーカイブズより)

 千葉大周辺は、戦時中に鉄道連隊や陸軍学校など軍用施設が集積したエリア。建物ごと現存するのは、近くにある千葉経済大学内に残る鉄道連隊の施設などに限られる。
 教員らは「第二工学部の校舎の存在は地域でもほとんど知られてこなかった」と強調。「『軍都千葉』としての地域史、学問と戦争を巡る近代史を学ぶ上で貴重。研究教育機関として、学術研究や地域学習に活用するための文化財として守るべきだ」と訴える。
 現存する二棟は旧応用化学棟と旧共通第三教室棟。千葉大教員によると、梁(はり)に丸太をそのまま使用し、くぎなどを極力使わずに建てられた点など、戦時中の資材統制の影響が見られる。応用化学棟の一室に残る巨大な三角形の「壁柱」も珍しいという。

応用化学棟(二工木造校舎アーカイブズより)

 二棟の敷地の一部は、千葉大が取得する予定。昨年秋、千葉大と東大の教員の一部は東大に保存の検討を求める意見書を提出。今年六月上旬には、千葉大七学部の教員有志で、同大学長に「解体せずに移管を」との要望書を提出したが、両大ともに跡地計画を進める姿勢だ。
 本紙の取材に、東大は「千葉大に移管する土地上の建物は、千葉大からすべて取り壊しとの依頼を頂いている。校舎は3D測量などを行い、デジタルアーカイブに残す」と回答。千葉大は対象の敷地の一部から法基準を超える有害物質が検出されたことを理由に「更地化後に取得する」と答えた。
 教員らは今後、学内や地域住民も交えた勉強会の開催など、校舎の存在や価値を周知する活動を検討しているという。
 戦争の記録や資料公開に携わってきた、わだつみのこえ記念館(東京都文京区)の山辺昌彦館長(75)は「校舎供出や学徒出陣、軍事研究など、戦時下の大学は国家総動員体制の中で戦争と多くの関わりがあった」と指摘。第二工学部については「設置の意味や当時の科学研究の実態を知り、今後の平和や軍事研究への批判を考えるためにも、校舎を保存し広く公開することには重要な意義がある」と話す。

応用化学棟の一室に残る三角形の「壁柱」

<旧第二工学部> 1942年4月、東京帝国大学工学部を増設する形で開設。入学者は東京・本郷の第一工学部と振り分けられ、造兵や航空、建築、電気工学などの学科で学んだ。戦時中、空襲で一部の校舎が焼失した。51年の閉鎖までに、約2700人が卒業。富士通の山本卓真元会長(故人)や日立製作所の三田勝茂元会長(同)など、戦後の実業界を代表する人材を多く輩出した。
 文・太田理英子
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