解明 江戸末期 キツネ退治したのは… 武蔵御嶽神社の神主だった! 本紙記事「ありがたい集落」きっかけ 「靱矢市正」時空超え

2021年7月19日 06時44分

大田区の熊野神社の「狐碑」について調べてきた竹内真治さん

 青梅市にある武蔵御嶽(みたけ)神社の神主(御師(おし))が経営する宿泊施設の集落を「ありがたい集落」(五月三十一日付、TOKYO発)として紹介した本紙の記事が、遠く離れた大田区・熊野神社に残る石碑の碑文の解明に結び付いた。解読に取り組んできた読者の指摘で、「狐(きつね)碑」に記されたキツネ退治をしたとされる人物が、江戸末期の武蔵御嶽神社の神主と判明。「ありがたい集落」のご先祖は、やはりありがたかった。
 碑文の謎に取り組んできたのは、大田区の古文書解読グループの一員だった竹内真治さん(86)。二十年ほど前に碑文の文字を読み解いた。碑には「御嶽靱矢市正(うつぼやいちのかみ)」が、人々を困らせていたキツネを退治して埋めたことと、「掘り返してはならない」との戒めが記してあった。竹内さんは「御嶽」を大田区の御嶽(おんたけ)神社と考えて問い合わせたが、回答は「該当する人物はいない」。「靱矢市正」が誰なのか分からないまま、いつの間にか記憶から薄れてしまったという。
 そんな時に目にしたのが「ありがたい集落」の記事だった。武蔵御嶽神社の神主で宿坊「うつぼや荘」を経営する「靱矢正」さんの名前を見た時、狐碑の記憶がよみがえり、「ビビッときた」。急いで手紙と電話で問い合わせたところ、「うつぼや荘」の親戚筋で別の宿坊「旅荘靱矢」を営む靱矢家の先祖と判明した。

青梅市の自宅で靱矢市正について説明する靱矢正さん

 正さんによると、市正は天保十一(一八四〇)年に家督を相続。碑文と記録を照らし合わせると、隠居した文久元(一八六一)年にキツネを退治したようだ。御嶽山から狐碑のある大田区の大森エリアまでは直線で約五十五キロ。交通手段の限られた江戸時代に、どういう縁で御嶽神社の神主が「キツネ退治」を請け負ったのか。
 「御嶽山で宿坊を営む神主たちは、古くから関東一円の信者の集団『講』を回って札を配ったり神事を執り行ったりしてきた」と正さん。「旅荘靱矢」の靱矢家は代々、大田区や川崎市などの地域を担当しており、「講に頼まれてキツネを退治したのではないか」と推測する。
 大田区教育委員会などによると、江戸時代の大田区は農村が広がり、農作物を奪うキツネが害獣とみなされていた。同区教委がまとめた「大田区の文化財第二十二集 『口承文芸』」には、住民がキツネに化かされた話も数多く収録されている。中には「御嶽神社の御師が狐憑(きつねつ)きを退治した」との伝承も。武蔵御嶽神社には、道に迷った日本武尊(やまとたけるのみこと)の道案内をしたとされるオオカミがまつられている。キツネなどの害獣を退治すると考えた農民たちが、御嶽神社の神主を頼りにしていたのは間違いなさそうだ。

同市の武蔵御嶽神社の参道には大田区の講が建てた記念碑がある

 狐碑は今も、熊野神社の拝殿脇に残されている。「掘ってはならない」と記されたその碑の下には何が埋まっているのだろう。農作物を盗んだキツネか、それとも妖狐(ようこ)か−。
 「実は、地域の古老で『掘った』という人がいたんです」と竹内さんは明かす。しかし、残念ながら、何が埋まっていたのか聞き出すことができないまま亡くなってしまったという。
 「御嶽靱矢市正」の正体が分かったことで、武蔵御嶽神社と狐碑との縁が時空を超えて浮かび上がった。キツネの正体の謎はまだ残されているが、竹内さんは「すべて解き明かされるとかえっておもしろくない。謎が残っていた方が想像力をかき立てられるのではないでしょうか」と笑みを浮かべた。 

◆狐碑に記された文字

此狐(このきつね)人尓(に)害をな須古(すこ)と久し
民ミ那是越悪(みなこれをにく)む今茲耳(ここに)
文久元歳辛酉(ぶんきゅうがんさいしんゆう)御嶽靱矢
市正埋禦萬世掘事南可連(うめふせぐばんせいほることなかれ)
 文・布施谷航/写真・池田まみ、布施谷航
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