「自分のワクワク見つけなくちゃ」 染色家・柚木沙弥郎さんに聞く

2021年7月22日 06時00分

<あの人に迫る>98歳でなお意欲的に制作を続ける型染めの第一人者

自宅のアトリエで絵を描く染色作家の柚木沙弥郎さん=東京都渋谷区で(木口慎子撮影)

 身の回りの日用品に美しさを見いだす「民藝(芸)運動」に共感し、工芸の染色家として意欲的に制作を続ける柚木沙弥郎さん(98)。自然や日常を描いた作品は、年月を経ても色あせず、世代を超えて人気が高い。「生活の中にある楽しみを集中して見つける」と作品づくりに没頭する姿には、コロナ禍で一変した私たちの暮らしを見直すヒントがある。(柚木まり)

ゆのき・さみろう 1922年10月、東京都生まれ。女子美術大名誉教授。終戦後、民藝運動の提唱者である柳宗悦と出会い、人間国宝となる染色工芸家の芹沢銈介に師事する。26歳の時に初めて制作した「紅型風型染布」が日本民藝館に所蔵されている、型染めの第一人者。女子美術大で染色を教え、87~91年に学長を務める。染色以外にも宮沢賢治の絵本「雨ニモマケズ」(三起商行)の挿絵を手掛けるなど、版画や絵画、人形制作と活動は幅広い。2008年に86歳で仏・パリで初の個展を開催、14年に仏国立ギメ東洋美術館に70点以上の作品が収蔵される。自然や日常をテーマにした作品は世代を問わず人気が高く、現在も個展に向けた創作活動を続けている。

 ―98歳になった現在も、染色や絵画など精力的に創作活動を続けられています。
 今、一番興味を持っているのは絵を描くことですね。身近なものをリアルに描くのが面白いと思ってるんだけど。自分の好きな身の回りのものを、グラフィックデザインと混ぜてね、ポスターみたいなもんだね。
 ー暮らしに根付いた工芸品に美しさを見いだす「民藝運動」に通じます。
 今、民藝って特別に言わなくても、「用の美」を唱えた柳宗悦の思想は、はっきりしていると思う。江戸時代には工芸品はなくて、みんな道具だったの。当時の絵画と言えば、びょうぶか掛け軸だったでしょう。日本人はそういうものを美しいと思っていた。たんすなどの家具も、まずは日常に使っている道具でしょう。
 ーパリで初めて個展を開いたのが86歳の時。80歳を過ぎて、物心ついたとおっしゃっています。
 それまでは、大学で教えたり、社会的に自分がどんなポジションになっているか、考える余裕もなく忙しかった。朝から晩まで、染色で実用的な服の布地やのれん、風呂敷などを作っていました。
 物心ついたっていうのは、自分がどんな物が好きで、どういう時点に立っているのかという意識だね。自信を持って、僕がこういう生き方をしてるんだとみんなが認めてくれる。若くして確立している人もいるけど、世の中の人が認めてくれる前は、自分が何が好きだって考える暇もなかった。
 特定の人ではなく一般の人が、僕の布を好きだと言ってくれれば非常にうれしいし、その布がどうなるかっていうことはあまり考えなかった。今は自分が作りたいものを作っている。生産力が落ちてきているから作っている布が特別なものだと自覚してきました。
 ー美術史を学ぶため東京帝国(現・東京)大に入学後、戦争が激化します。
 旧制松本高校(長野県松本市)に通っていた頃に太平洋戦争が始まり、東大には1年くらい行きました。1943年に学徒動員になって、久里浜の海軍通信学校(神奈川県横須賀市)に配属され、通信のことを勉強しました。僕は落第して、兵隊の訓練を2度やったのね。その間に船も飛行機もどんどん減ってしまって、だから結果的に随分得をしたね。
 未明に東京大空襲があった45年3月10日の朝、学生隊の隊長が「おまえたち東京の連中は、家が焼けて大変なことになってる」って言っていた。夜が明けても東京の方の空が赤かったのを覚えている。
 ー終戦を迎えた時の状況は。

 大井海軍航空隊(静岡県牧之原市)に配属されて、そこでも空襲があった。米軍の飛行機が飛んできて、ベニヤの飛行機を狙ってくるんですよ。それを機関銃でもって迎え撃つんだけど、とうとう1度も飛行機を落としたことはなかったね。兵舎が燃えて、広島に原子爆弾が落ちたと言っている間に戦争が終わった。
 終戦の日、全然記憶がないのよ。天気が良い日だった、それだけはよく覚えている。航空隊の兵隊たちは物資を持って、みんないなくなっちゃって。僕がのんびりしてたのかなあ、のんきだったね。解散の訓示も何もなく、事務所で汽車賃をもらって「帰って良い」と言われたの。
 ー東京大空襲で自宅が焼失し、お父さんの実家がある岡山県倉敷市玉島へ移り住みました。
 終戦後、東大にも何カ月か行ったんだけど、元の学生はいなかった。そんな中で、倉敷市の大原美術館に勤めることになりました。美術館で、のちに人間国宝になる染色工芸家の芹沢銈介先生の型染めをした和紙のカレンダー作品を見つけ、面白いと思ったんです。柳先生と出会って民藝を知り、大学を辞めて染色の道へ行こうと決めた。その時、結婚していたからね、偶然だけどそれが良かったね。
 ーその後は、女子美術大で教壇に立ち、作家として染色の道一筋です。
 学校はのんきなところでしたよ。実技の先生だったから、自分の好きなこと、興味のあることを学校を利用して。学生と一緒に仕事することが良い状態だと思っていた。今は学科に重点が置かれて、なかなか難しいね。社会がきちんとなってくると、学生は大変だよ。
 民藝の考えから言えば、完璧な手仕事をしていました。僕が染めた布を必要とする人たちがいて、縫う人がいて。そういう中間的な経済人がいたんだね。今はできないでしょう。染めた布が安くても、それを縫う人、縫う方法を身に付けている人がいない。自分だけのオートクチュールを着て、楽しめる人は幸せだと思う。
 ーコロナ禍の社会をどう見ていますか。
 世の中で東京五輪・パラリンピックの開催がどうかって言われている時代にね、分断と融合というか、みんなが仲良くすることが掲げられたスローガンなのに、なかなかそうはならない。老人は外に出ないし、若い人は道端でお酒飲むのが良くないと、非常に難しい時代ですよね。
 先日、東京の大規模接種センターで新型コロナウイルスのワクチンを打ってきました。なるべく早く打ちたかったから、息子がインターネットで予約してくれました。雨の中を行くと、最高齢だと言われて。政府から派遣された自衛隊が主体になって、至れり尽くせりでした。あの人たちにすれば、楽な仕事だと思うんですよ。けれど、国がそれだけの人間を動員して五輪をなんとかかっこつけようとしてるんだから、涙ぐましい努力だと思いますね。
 この時代に、そういうことがあるってことが面白いと思うんですよ。その時代に生きているっていうことだと思うな。何を一生懸命やっているかって。面白いことはあるの。“モノ”だけじゃなく“コト”にも、たくさん。
 ー柚木さんは「ワクワクすることが大事」とおっしゃいます。
 ワクワクするっていうのは、自分が面白いってものを発見しなきゃなんないでしょ。そこがポジティブなんですよ。「これワクワクするでしょ」って出されてもね、本人がピンとこなけりゃワクワクしようがないでしょ。そこが大事なんだよ。
 ー今もワクワクし続けられる秘訣は。

 人間は自分をコントロールできないと落ち込んでしまうからね。だんだん年を取ってくると、元気が出てくる人とそうでない人がいると思うな。
 生活を楽しむことが根本ですね。特別なぜいたくではなく、生活の中のいろんな“モノ”や“コト”、そういうことに集中して楽しさを見つける。自分が見つける。他人が見つけたものを与えるのではなくて。仕事も自分の立場で選んだ仕事をする。そういう視点を指導的な立場になる前、30代以上の人は持つべきだと思うな。

<あなたに伝えたい>生活を楽しむことが根本ですね。特別なぜいたくではなく、生活の中のいろんな“モノ”や“コト”、そういうことに集中して楽しさを見つける。

◆インタビューを終えて

 描いていたのは、自宅近くの代々木公園のイチョウの木。十月に迎える九十九歳の誕生日に開く個展に向け、黄金に色づいた秋の風景を絵にしていた。画材でいっぱいの机の上は、食品トレーをパレットに、絵の具や絵筆はそうめんの木箱や空き瓶を使って整理されていた。
 身の回りのモノやコトに集中し、ワクワクを大切に生きる。美術史を学ぶために入った大学での研究は戦争が阻んだが、染色の面白さに出合い、その道に進むことを決めた。自分で見つけ、自分が決める。木や鳥、ポットさえ鮮やかに伸びやかに描く。日常に楽しみを見つける迷いない視点が、世代を超え共感される作品を生み出している。
(2021年7月19日朝刊に掲載)

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